うらみわびの【この本がおもしろい!】第7回
カズオ・イシグロ 著
土屋政雄 訳
早川書房(2021)
『クララとお日さま』
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稀有な存在
”ロボット”と聞くと人間のサポートをする存在。または人間の先をゆく存在というイメージがある。
ロボットの真価が発揮されるのは私たちの仕事を支援したり、介助ロボのような生活支援のイメージだ。
本書に出てくるロボットはそれとは少し趣が異なる。ロボットのクララは少女ジョジ―の家族に購入され、ジョジ―の支援をする。
それは生活支援だけでなく精神的な支援である。病弱なジョジ―の”幸せ”をかたちつくる存在でもある。
そんな私の感覚からすると稀有な存在であるロボットと人間との関係性をつぶさに語る物語が『クララとお日さま』である。
魅せられた新たな視点
ロボットを通して見える世界
自然にできた小道らしきものをたどっていくと、一歩ごとに地面が固かったり柔らかかったりして、先を読むことがなかなか困難になりました。
草が私の肩の高さまで伸びています。これでは方角を見失いかねないという心配もちょっとしましたが、草原のこの部分はボックスのきちんとした列になっていて、ボックスからボックスへ移るとき、前方に何があるかがはっきり見てとれました。
困ったのは、やはり草です。左右どちらからでもひょいと目の前に飛び出してきて、とても邪魔でした。
でも、すぐに片腕を前に伸ばしておけば防げることを学びました。両腕が自由ならもっと速く前進できたでしょうが、こちらの腕にはジョジーの封筒があります。これを危険にさらすことはできません。やがて背の高い草が終わったとき、私はリックの家の前に立っていました。 197,198
カズオ・イシグロ 著 土屋政雄 訳 『クララとお日さま』p.197,198
以上の本文のナレーションである。本書がおもしろいのは物語全体を通してクララ、つまりロボットの視点で描かれている、ということである。
ここだけをみていてもなかなかの描写力じゃないですか!どうやらこの世界のロボットはかなり最先端の代物のようです。
加えて興味深いのはクララには”感情”というものがある、ということである。「ロボットに感情⁉」と思われると思うが、私もそうだった。
どうやら流れはこのようである。まず、ロボットは世界を観察する。じっくり時間をかけて物体の動き、物体の名前、1日の動き、そして人間の感情や行動パターンを学習していく。ロボットの能力をあらわすのは”感情”ではなく、この学習能力といえるだろう。
最初の数十ページを覗いてみる。舞台はロボットが売られているお店のショーウィンドウに陳列されているクララの視点からはじまる。
ここでお店のはいっているビルから下を見下ろす描写がやたらと多く描かれているが、行きかう車がすべて「タクシー」と描写されているんですね。いくらタクシーが多い通りであったとしてもすべての車がタクシーなわけがない。
私ははじめ「?」と思いながらこの奇妙な文章を読み進めましたが、これこそがロボットであるクララの学習を追体験していることなのだ、と後に気付き始めました。
学習された感情は……
学習された感情ははたして自分のものなのだろうか。その意味でクララに感情はあるのだろうか。私は「ある」と考える。
物語のあらゆる場面で「画面がブロックに分割される」という描写がある。
私ははじめ、「これはなんだ」と思いながら読み進めていた。しばらくして考えたのち、これはクララの”動揺”のあらわれなのではないだろうか、という結論に至った。
いわばノイズのようなものである。クララはジョジ―という人間の心のケアを重要な任務としている。
クララは観察能力がある。とりわけ人間の心の動きを読み取るのがうまい。だからこそ人間や動物の様々な感情が交錯するとき、その膨大な情報量を処理しきれなくなり、もしくは相いれない喜怒哀楽に翻弄されて、ノイズが生じたのではないだろうか。その結果が「画面がブロックに分割される」ということだと、私は考える。
孤独が恐ろしい理由
本書で語られるのは人間の”孤独”。
孤独こそが人間の不幸を生むのではないか。
私たちはいつかは死ぬ。いつ何があるか分からない。そんな未知数のリスクと隣り合わせの毎日を過ごしている私たちが平然と生きていけるのはそのリスクの存在を”忘れて”生きているからだろう。
しかし、現実に直面すると、そのリスクの存在があらためて思い出される。そのとき私たちは畏れおののく。
病弱なジョジ―には”死”というものが常にとなりにある。その家族や周りの人々の心境ははかりしれない。
これはジョジ―個人の闘いではない。当人の周りにいる人々の闘いでもあるのだ。
そして辛いのはジョジ―だけではなく……
孤独が不幸なのではなく、孤独があたえる恐怖心が不幸を生む、と私は考える。誰しも一人の時間があるのに、ひとりを経験しているのに、孤独が怖い。
それは今あるものを失うことの喪失感であり、孤独が続くという継続性である。
苦痛を想像すること、それが永遠に続くということがどうしても半ば無意識のうちに決定づけられているようにも感じる。本当はそうではないのかもしれないのに。
別れの数だけ出会いがある。これはポジティブなようで実は残酷な捉え方なのかもしれない。
実の家族との別れを考えたら……。私には到底耐えられないだろう。
家族を失ったとして、その代わりが見つかるだろうか。はたまた”見つける”こと自体が適切なのだろうか。
心にとどめておくべきかもしれないし、今後のために忘れるときが必要なのかもしれない。この両者のアイデアのなかで私の頭の中はぐるぐると回っている。
答えはないが、どこかで割り切らなくてはならない課題だろう。
価格:2,750円 |