うらみわびの【きょう考えたこと】第18回
結婚して子供を授かる。それは人生で最上の幸福を私たちにもたらしてくれる。そう考える人は多いと思う。しかし、人生の大半を占めることが多い、これまでの生活スタイルを一変させる結婚生活を通して、「こんなはずではなかった」と悔やむこともあると思う。このような結婚生活の「幸せ」と「不幸せ」を列挙すると、「不幸せ」が数の上では多くなるのではないだろうか。結婚は試練である、ともいえるこもしれない。しかしながら、結婚生活が私たちにとって、かけがえのない幸福をもたらしてくれることも、また事実である。
何が私たちの結婚生活を苦しめるのか。その一片を考えていきたい。
主語が異なる
恋愛の延長線上に結婚がある、というのが私の考えである。したがって、結婚を考える際にはその前段階の恋愛についても考える必要がある。「恋」と「愛」は似て非なる性質のものである。
恋・・・抱くもの
愛・・・与えるもの
というのが私の大雑把な「恋」と「愛」の捉え方である。つまり、恋とはひとめぼれのように相手の魅力に自然とひきよせられるときの心情を現したものである。他方、愛は大切に想う相手に対して何かを捧げるときの心情を現している。ここで興味深いことは「恋」と「愛」は主語(対象)が異なることだ。
恋・・・主語は自分
愛・・・主語は大切な相手
恋は常に自分のなかでふつふつと燃えたぎっている。対して愛は相手の為を思ってなにかをすることであるから、大切なのはその行為の受け取り手、つまり相手である。恋愛においては、相手に「恋」を抱き、相手に「愛」を与える、ということになる。
愛を取り違えること
私たちは恋を抱いた相手に対しては他の人よりも殊更大切にしたいと思う。したがって特に優しくしたり、時には色目をつかったりもする。このような相手に対しての一連の動作には動機がある。この動機を取り違えないことが肝要である。
恋とは、相手と接することで自然発生的に心に起こる感情であるが、恋は至上の快楽を私たちに与える。付き合ったばかりのうぶなカップルを想像すると分かりやすいが、1回のデートや数分の会話がとても楽しい。
しかし恋は不安定な感情である。一度得た至上の幸福は消費され、次にいつ訪れるか分からない。もしかしたら一生訪れないかもしれない、そう不安になる人もいる。「失恋」、という言葉があるが、的を射た言葉である。恋は至上の幸福を与えてくれるが、同時にそれを失った時の悲しみは計り知れない。
そもそもなぜ恋を失ったときに私たちは悲しむのだろうか。それはおそらく、恋を失ったその瞬間から次なる恋が約束されないからである。少なくとも今の相手との恋は戻ってこない。恋は消費される。思い出として心に残る、なんてことは慰め程度である。
一方で愛はどうだろう。愛は与えるものである。「無償の愛」なんていう言葉があるが、これも的を得ている。愛は無償であるべきである。なぜなら愛に見返りを求めることは危険だから。ここでいう見返りとは恋愛における「恋」を相手が自らに与えることを指す。愛を見返りに恋を手にしようとすることである。これがなぜ危険か。それは前述した通り、恋が消費財だからである。言い換えれば、恋には際限がない。お金と同じである。一度欲すれば、満足する値などと言うものは存在しない。私たちは際限なく恋を欲するようになる。
さらに私たちは味を覚える。いくらカレーが好きな人でも一日三食カレーをずっと続けるとさすがに飽きるであろう。恋も同じである。はじめは一さじの恋でお腹いっぱいであったものが、徐々に物足りなくなってくる。恋が欲しいから愛を与え続ける。今の恋は私の愛に見合っていない、などと考えるようになる。いつの間にか、欲しているものは相手ではなく、恋そのものになってしまう。
嫉妬深い人間がいる。恋愛に関してはドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』より、長男ドミートリ―の言葉を引用する。悲劇『オセロ』を引き合いにこう語る。
「明日になれば彼(オセロ)はまた別の新しいライバルを考え出して、その新しいライバルに嫉妬するのである。それほど監視せねばならぬ愛にいったい何の価値があるのか」 ※カッコ内加筆
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愛に見返りをもとめると際限のない苦しみを味わうことになる。愛は与えたままにしておくのがよい。
見返りのない愛、と聞くとなんだか恋愛に対するモチベーションが下がる気がする。しかし心配はいらない。無償の愛は無償の愛で返ってくる。無償の愛にはなんらいやしいところはない。その優しさがあなたを包み込んでくれる。恋以上に愛にあふれた関係、相手を尊重し、思い合う関係、それこそが長続きする恋愛像ではないだろうか。
結婚とその先にあるもの
時間の感覚
恋愛の先にあるのが結婚である。そしてその先にあるのが子どもを授かる、ということである。ここでも先ほどの恋愛観が生きてくる。
結婚して住居を共にする人も多い。そうすると自然とお互いの価値観がぶつかる場面が増える。問題は様々であり、一概に言えないが、大切なことは結婚することで私たちの生活は新しいステップに入ったということ。いままでとは違う考え方を要求される、ということである。
生活の主語を変えるのが良いだろう。今までは「自分」が主語であった。それをパートナー、子どもを含めた「私たち」に変えるのだ。これは心理学者アドラーが唱えたことである。主語を変えることで大人は「自分」ではなく「家庭」を最優先に生きるという選択を自然と行うようになる。これは簡単なようで難しい。「個人の自由」が叫ばれて久しい世の中であるからだ。これは程度の問題である。夫婦それぞれが「自らの時間」と「家庭の時間」を分けることである。これには個人差がある。夫婦で話し合い、日ごろから時間の感覚を共有することが大切である。
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子育てに後ろ向きな離婚
子どもを授かる、とはどういうことか。率直に申して、子どもを育てるという行為は手間がかかる。お金がかかる。それでも私たちは子供を育てる。
子どもを育てるということは、自らの時間を子供に捧げる、ということである。したがって子供をつくる、という選択は重い決断でもあるのだ。これは前述した「無償の愛」の究極の形ともいえるかもしれない。
大切なことは、このような重い決断を夫婦が互いの価値観をしっかりと共有したうえで行うことである。でなければ、例えば子どもが生まれても子育てをしない親や子どもができてから違う異性と関係をもつ人がでてくる。
離婚は完全悪とはいわない。しかしながら離婚後の子育ての価値観が夫婦であまりにも温度差があるのではないか、と思う。
離婚をして、子どもを養育する場合、負担が大きいのは女性のことが多い。厚生労働省による平成28年度の全国ひとり親世帯等調査結果報告では離婚後に子供の教育費を元夫から受給している女性は24.3%である。約8割の女性が受け取っていない計算だ。これはあまりにも低い。
なぜ教育費が受給されないのか。それは離婚時の教育費の取り決めにある。同調査によると離婚時に子供の教育費の取り決めをしている女性は全体の42.9%、していない人は54.2%であった。取り決めをしていない人の理由としては、「相手に支払う意思がない」という理由が17.8%となっている。
これは大きな問題である。男性には育児に対して関心がない人が多いのではないか。価値観は人それぞれであるが、子どもをもうける場合には、夫婦で価値観をしっかりと共有しておきたい。くれぐれも片方にだけ負担がのしかからないように。
子どもの教育に対しても恋愛観は生きてくる。子どもの前では特に注意を払うべきだ。子どもは私たちが思っている以上に大人の心情を見抜いている。憎悪が家庭内にはびこるならば、残念ながら子供は憎悪をもって大人となっていくだろう。愛の足りない家庭で育った子供は愛を知らない。無論、他者から与えられた愛に反抗し、相手にも愛をあたえることはないであろう。子どものいる家庭は特に愛であふれていることが望ましい。
子育てを第一にした雰囲気をつくる
ここまで恋愛観で結婚生活を見てきたわけであるが、これが絶対の正解ではない、ということは注意しておく。価値観は多様である。私が知っている家庭だけでも、夫が金を出すことを前提に他の女と関係を持つことを許容している女性もいる。これは家庭内の問題なので、あまり外からとやかく言うことではないかもしれない。
しかしながら、そのようなあまりにもドライな夫婦関係、家庭の雰囲気は子供に少なからず悪影響があるのではないか、と私は危惧している。恋愛は私たちに至上の幸福を与えてくれる。どうかみんなが挫折をしながらも、その幸せを享受することを願ってやまない。