この本がおもしろい!

テーマは”自己嫌悪” 青春ブタ野郎は『ロジカルウィッチの夢を見ない』を読む

 「ごめん」の重さ

私たちはたくさんの人の思想や考えを吸収して咀嚼し、自らのものへと再構築している。こうしてうまれた各人の思想や考え方が言動となって他者に影響を与えているのだ。ポジティブにとらえらば他者を救うことができる

しかし仮に他者を救えたとしても、同じ理屈で自分を救うことができない、ことだってある。たくさんの人を救えるようなアイデアを持っている人でも、自身の破滅を食い止められないことだってあるのだ。

本作ではそれを示すのが小説内で登場する謎多き女子高生、牧之原翔子だ。

「『ごめん』って気持ちは大事ですよね?大事ですけど、ずっとその気持ちを向けられると、人は『ごめん』の重さに押し潰されてしまうこともあるんです。」

と言いながら、自分も親に対しては、心配をかけていることに対して「ごめん」と言ってしまっているのだ。

もしかしたら、「ありがとう」って言うことは「ごめん」ということよりも難しいのかもしれない。「ありがとう」はよほどのことがない限りは言わないが、「ごめん」は少しでも迷惑をかけてしまったと思ったら口にだしてしまうからだ。

人の恩は受けるとうれしいが、被害を被った時には多少の痛みが伴う。痛みに対しては、私たちはすぐに反応してしまう。そんなメカニズムが「ごめん」を誘発しているのかもしれない。「ごめん」は決して言ってはいけない言葉ではないが、それがかえって相手の負担になることもあるようだ。顧みれば、私も「ごめん」や「すみません」が口癖であることに気づく。もはや無意識の所業だ。ある人からみたら滑稽に映るのかもしれない。

誰もが自らの思想と自分自身とに矛盾を抱えているのではないだろうか。それは自然なことではないだろうか。人間は機械ではない。このような自己矛盾を悔やむことなく、「ま、こんなもんだろう」と思って生きていくのがよいのではないか

だからといって、自分でできていないことを他者に施すのが過ちとはならないだろう。現にそれで救われる人がいれば、それでよいではないか。そして、自らが困っているのならば他者に助けを求めてもよい。あらゆる自己と和解しつつ、周りからのアドバイスも受ける。そんな一見ちぐはぐな生き方が人間らしい生き方ではないだろうか。

世の中は「いっちょんわからん」ことに溢れている。自分が理解に苦しむことがあるなら、それが自分にとって自然な反応といえる。それを無理に矯正する必要はないのかもしれない。そんなテキトーな生き方でいいのではないだろうか。

 (本記事では、「それでも社会に適合していかなくてはならない」という問題に対しての具体的な議論には及んでいない。社会の風潮を変えるのは実に難しい。一人では解決できないからだ。そのなかで自分一人ができる手っ取り速いアプローチは「自分が変化する」ことだろう。自分がすこしでも幸せな生き方ができるならば、その幸福が他者に伝染するはずだ。社会がこのようにして万人が生きやすい方向へ向かっていくことを望む)

今日も皆さんが幸せでありますように

本が好き!

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