きょう考えたこと

〇〇警察をどう見るか

うらみわびの【きょう考えたこと】第40回

昨今、世間をにぎわせる○○警察。自粛警察にはじまりマスク警察、帰省警察など。最近ではその多様さに驚くばかりである。テレビの報道で○○警察の言動を見ていて率直に思い起こされるのは、学生の頃に初めて見た戦時中の「贅沢は敵だ」という看板の写真。当時は有事に対して挙国一致体制で臨んでいた。贅沢をするものは非国民とみなされたという。現在の日本も当時と同じ雰囲気が蔓延しているのではないか。集団心理の恐ろしさを身にしみて感じている今日この頃である。

○○警察に対して、その挙動の恐ろしさや暴力に対する非難、または個人の思想によって他者の行動の自由を縛ることはできない、といった論理によって考察することも可能であるが、ここではそれらとは異なる切り口、つまり「和解」という視点でこの現象をみていきたい。

まず、○○警察の根底にあるのは怒りという感情。その怒りを引き起こすのは未知のウイルスの蔓延に対する「恐れ」である。

「キレる」ということは人間として起こり得る行動であるが、それは必ずしも他者の失礼な言動によって引き起こされるものではない。ときとして自らが抱く不安、そしてその不安を的確に指摘されたときに反射的に引き起こされることがある。自分で気にしていたことを指摘されてキレるのである。

人々は皆、何かしらの不安や欠点を抱えて生きている。普段はそれを自分のなかでうまく抑えているのであるが、それが抑えられなくなった時、他者から指摘されたときは特に爆発しやすい。

このコロナも一種の他者からの指摘、と捉えることができる。「社会」という大きな他者からの指摘である。

世の中には自分ではどうすることもできない、ということが必ず存在する。むしろ自分ではどうしようもできないことの方が圧倒的に多い。まずはこのことを認識しておかなくてはならない。そのうえで、自分は何をなすべきか、よく吟味して行動するのである。

同時に、自分ではどうすることもできないことにどう対処するか、についても考えを及ばしておく。ここで鍵となるのが「和解」という考え方だ。

未知のウイルスが蔓延するこの世の中で不安があることは自然なことだ。ウイルスの抑制という観点からみれば、人々の移動を抑えることが最も的確な行動と言えるだろう。しかしながら、社会という観点からみると問題は複雑だ。経済の完全なる停止は労働の停止を意味し、人々から明日のパンを奪う。現状の社会保障体制、雇用体制、経済体制のシステムでは経済のシャットダウンに対応できない。これは認めなければならない。したがってウイルスと人々の暮らしの両方を考えた裁量的な決断を政治的には下さなくてはならない。

政治とは「和解」である、と考える。万人を救うのが政治である。したがって、一つの観点からのみの政治はありえない。よって、社会に存在するあらゆる思想、ニーズを折衷した決断を下すこととなる。これが和解である。

これは私たち個人についても同様である。私たちは思想の自由が認められているが、同時に社会に生きる者として、自分とは異なった考え方が存在することも認めなければならない

そして、自分の意見を表明することはできても、必ずしも他者を説得できるとは限らない、ということも認めなければならない。これは酒と暴力の祖父と20年以上向き合ってきた私が現在、辿り着いた答えだ。同時に以前紹介した行動経済学者 依田高典氏の言葉を再び借りると世の中は「絶対に(自分の意見を)変えない人が2割」いるのである。

以上を認めたうえで私たちは社会を生きていく。そのためには自らの思想とは相いれない思想の存在を認め、生きていくことだ。これこそが「和解」である。

今日のコロナの現状を見たところ、日本はよくやっている、というのが私の個人的な見解だ。これはひとえに国民ひとりひとりが新たな日常を模索しながら生活していることによる。もともと○○警察という人々は誰よりも日本社会を守りたい、という意識の強い人たちである。彼らはたまたま自らの不安を抑えきれていないだけである。しかし、ウイルスの抑制という面においては彼らの考え方、つまり行動の抑制こそが効果的であることはある程度立証されている世に感じる。

いずれにしても、今回のコロナウイルスは私たちすべての人々にとって未知なる闘いであることは間違いない。だからこそ、私たちはこの状況下においても外出する人がいる、ということを認め、他方で○○警察が生み出される、という事実も受け入れ、双方がお互いを「和解」させながら生活していくことが求められる。「ウイルスの撲滅による安心した生活の奪還」、その共通の目的に向かって私たちみんなが歩みを進めていることを忘れてはいけない。

今日も皆さんが幸せでありますように!

本が好き!