きょう考えたこと

うつ病を喩えると……

夢をみていると「あれ、この人誰だっけ?」というひとがときどき出てきます。そんなとき、目が覚めてから「ああ、あの人だ」と分かることがあるんです。というのもその人のオーラというか、そんなものが夢の中でも感じるんですよね。この前は中学のときに仲の良かった同級生が出てきました。共に将棋部に所属していたんですが、「俺はレールガンを作る!」って言って退部していった彼。小さなコイルガンは作ってたな。それにしてもいい奴だった。日本がレールガンをつくろうとしている、というのは本当だろうか?

うらみわびの【きょう考えたこと】第38回

うつ病を喩えるとしたら、それは心の中の獣。具体的には大型犬。黒い大型犬。これがとにかく厄介な代物で。一応リードでつないで入るのだが…。

私が何かをしようとすると、その場に座り頑なに動こうとしない。と思えばいきなりものすごい勢いで走り出す。リードを持つ私はなすすべもなく引っ張られる。彼はとにかく言うことを聞かない。彼を飼っている私は毎日へとへとだ。

この喩えで重要な点は2つある。1つは「自分ではどうしようもできない」という点だ。うつ病について議論するとき、「心のありようの問題だよ」とよく言われるが、そんな簡単な問題ではない。例えば、趣味をして心をリフレッシュしたいのに何をやっても楽しくない。調子がいいから外出の予定を入れたけど当日になって調子が悪くなって行けない、なんていうのはよくあることだ。

そもそも電気のスイッチを切り替えるように心をコントロールできたら、うつ病でここまで苦しむことはないだろう。うつ病の心の乱高下はもはや自分ではコントロールできず、自分とは少し切り離して考えるべきだと私は考えている。

ここで強調しておきたいのは、日によって調子が変わるという、このような心の症例はなにもうつ病特有のものでは決してない、ということである。ただ、うつ病は調子の良い・悪いがかなり極端でかつ持続的なことが特徴だと考えている。そしてうつ病とそうでない人の境界はとても不明瞭であると思う。それはコップに水が溜まっていくように、確実に要因が積み重なっているのだが水が溜まり過ぎたことに自分が気づくのは、水があふれた後になったなってからのことが多い。それでは遅いのだ。重い疲労感やため息、無気力感など、うつ病のサインはたくさんある。どうかそれをキャッチし、日々の生活の中で自分をいたわってほしい。

2つ目の点は、うつ病が自分では完全にコントロールできないことを理解し、それとうまく付き合っていく、ということ。私はこれをうつ病との和解、と呼んでいる。やるべきことは何も難しいことではない。気持ちが重い時は何もしない。少なくてもエネルギーを使う重労働はしない。気持ちが軽い時には思い切ったことをしてみる。これだけだ。

でも、皆さんもうすうす気づいていると思うが、これが実際は難しい。それは毎日決まった時間に働き続けないといけない、という社会的強制力もあるし、「頑張らないといけない」、「自分は怠けている」という自己否定もある。私たちは休むのが苦手でかつ休めないのだ。

この現状を鑑みたとき、私たちはどうすればいいのか。正直、働き方がもう少しゆとりをもってフレキシブルになればよいのだが、なかなかそうはならない。したがって、申し訳程度であるが、私たち自身が日々の生活の中で瞑想をするなり、音楽を聴くなり、とにかく「頑張らない時間」を計画的にもつことである。

私がうつ病を経験して思ったことは、当事者と一般論とに大きな隔たりがあるということ。一般論にはうつ病は「本人の責任」といった冷ややかな見方もある。事実、うつ病と付き合っていくことは並大抵のことではない。本人がものすごく苦しんでいるのであるから、周りの人はななおさらである。

しかし、本人も含め、皆がうつ病というものをもっと理解し、社会ができるだけ同じ絵を共有できれば、この病に対する人々の苦しみは減ると信じている。

今日も皆さんが幸せでありますように

本が好き!