この本がおもしろい!

カミュ

カミュの『異邦人』を読んでいると、人間性におけるもう一つのテーマに行き着く。それは””である。ちなみに『異邦人』の冒頭の1行をご存じだろうか。

「ママンが死んだ」

なんともインパクトのある1行ですよね。名著にはインパクトのある1行があるものです。夏目漱石の『吾輩は猫である』なんかもそうですよね。

さて、目の前の具体的なものにしか興味を示さないムルソーの人間性はどこから来るのだろうか。私はそこに「愛」の欠如を見る。『異邦人』は主人公ムルソーの視点で描かれる。そこで多く語られるのが彼の母の存在である。

家庭内における子供への愛の欠如は子どもの将来に大きな影を落とす。殊に幼少期に親からの愛情を受けないで育つと辛い。人は失敗しながら生きている。失敗しながら学び、”自分らしさ”を育んでいく。その過程で悩みや葛藤もある。自分を責めることもある。そんなときに「それでもいいんだよ」と優しく包んであげるのが親の愛情である、と私は思う。何があっても最後には見方でいてくれる。そんな親の存在が子どもにとっての心のセーフティネットの役割を演じてくれる。

親からの暴力

犯罪を犯してしまう人には自己肯定感が低い、という傾向がみられるようだ。自身も刑務所で受刑者の更生プログラムの講師を務めてきた岡本茂樹氏の著書『反省させると犯罪者になります』からは、犯罪と自己肯定感の関係性が浮かび上がってくる。

反省させると犯罪者になります (新潮新書) [ 岡本 茂樹 ]

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自己肯定感が低い、という状態は単に自分を信じてあげられていない、という状態にとどまらない。幼少期に親から”役立たず”などという心無い言葉や暴力を受けてきた、というマイナスな経験も含まれる。親からの虐待を受けて育った子どもが親となり、自らの子どもに虐待をしてしまう、という”世代間連鎖”というのも社会問題となっている。

反省を演じる

『反省させると犯罪者になります』はもう一つ、大きな指摘をしている。それは、受刑者の多くが刑務という苦痛から逃れるために「反省」を演じる、ということ。つまり、表向きは「反省しています」という態度をとり被害者やその遺族に手紙まで書くが、その内面では反省しておらず、ただ早く元の生活に戻りたい一心である、という。それを裏付けるのが再犯率の高さだ。2020年に刑法犯で検挙された人のうち、再犯者の割合が49.1%であった。検挙者の約半数、この数字の高さは非常に印象的である。

では、どのようにしたら犯罪者を真の意味で構成させることができるのか。「時間をかけた」事件との向き合いの時間の必要性を岡本氏は指摘する。その意味で2022年6月13日の法改正により新たに創設された「拘禁刑」に対する期待は大きい。

明治40年(1970年)に制定された刑法。ここには死刑や懲役刑、禁固刑などが明記されている。

それより、受刑者には刑務作業を行わせる「懲役刑」と刑務作業を行わない「禁固刑」が主に課せられてきた。しかし、出所者の再犯率の高さや、受刑者全体に対してきわめて少ない禁固刑の割合、禁固刑の受刑者の大半が自ら率先して刑務作業を行っている、などの現状から、2022年に「懲役刑」と「禁固刑」統合し、新たに「拘禁刑」を設けることとなった。

懲役刑の趣旨は書いて時の如く、厳しい刑務作業に従事させて受刑者を懲らしめるところにある。しかしながら、これだけでは、受刑者の再犯率を下げることにはつながらず、真の意味での更生とはなっていないのが現状だ。

そこで岡田氏が提唱するのが、もっと時間をかけて「事件と向き合う」という機会を設けること。具体的には、被害者に対して手紙を書く「ロールレタリング」という手法。岡田氏はその手法を拡張して、過去の自分や自らの親に対して手紙を書くことも提唱している。

懲罰という副次的なもので懲らしめるのではなく、事件そのものと向き合うという対峙こそ受刑者の更生に欠かせない、と私は考える。そのための時間が受刑者には「十分ではない」と岡田氏はいう。刑務作業だけでなく、事件と向き合い、自らのメンタルと向き合う更生プログラムにも重きを置くとされる「拘禁刑」に対する期待は大きい。

さて、『反省させると犯罪者になります』では、受刑者の多くが人からの愛、とりわけ親からの愛を欲していることにふれている。

らは素直に自分の気持ちを伝えることもできません。本当は心の奥底に焼けつくような愛情飢餓があっても、素直に「愛してほしい」と言えません。なぜなら、「愛してほしい」と素直に表現した経験がないからです。そして、素直に愛情欲求を表現できなかった理由は、親(あるいは養育者)が、彼らの愛情欲求を受け止める人ではなかったからです。

岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』新潮社 2013

これは『異邦人』の主人公ムルソーについてもいえるだろう。親を早くになくした彼が他者に無関心で時に破壊的な行動にでるのは、相手からの愛を欲していることの裏返しである。換言すれば他者との関わりを求めていたのである。ただ、その方法がわからず、不器用であったのである。したがって、ムルソーが他者に対してとる行動は彼なりの「愛」とも呼べるものである。彼の「愛」が支配的であり破壊的なのは、自分も愛されてこなかったから。「愛し方」が分からないからなのである。

完成を恐れる心

ここであえて、ムルソーの破壊的行動を別の角度からみてみよう。すなわち、彼は誰かと親しくなり、「愛」という行動と関係性が生まれてしまうのを恐れていた、ということは考えられないか。

人間は目標を達成した時よりもその努力と挑戦の過程に充足感を覚える、というフロー感覚なるものがある、とされている。例えば、欲しいブランド物のバックを買うために頑張って働くときは、辛いが目標に向かって頑張っている充実感がある。その反面、ひとたびバックを手に入れてしまった後はバックに対する愛着がわかなかったりする。それこそがフロー感覚である。

そんなフロー感覚を破壊的な”人間性”に投影したのがドストエフスキーの小説『地下牢の手記』だ。

地下室の手記 (新潮文庫 トー1-8 新潮文庫) [ ドストエフスキー ]

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間があれほど破壊と混沌を愛するのは(これはもう議論の余地のないことで、その愛し方が時にきわめて強烈なのも、そのとおりだ)、目的を達し、自分たちが創っている建物を完成するのを、自身、本能的に恐れているからではないだろうか? もしかしたら、彼が建物を愛するのは、たんに遠くからだけで、近くに寄ったら全然そうではないのかもしれない。どうしてそうでないといえよう。あるいは、彼が愛するのは、たんにそれを立てる過程だけで、そこに住むことではないのかもしれない。(後略)

ドストエフスキー『地下室の手記』 江川卓 訳 新潮社1969 p.p.61,62

うらみわび

人間の本質を「破壊」と「混沌」というところが、物語の主人公の悲観さを物語っているね。

でも、これはある意味で的を得ているのかもしれない。人は誰しもが異なる価値観をもっている。私たちが俗にいう「価値観が似ている」とか「気が合う」というのは、お互いの価値観が重なる共通部分に目がいっている状態だ。でもお互いの距離が近すぎると相手の嫌な部分が垣間見えて減滅してしまうこともある。それこそが「建物を愛する」ということの本質なのかもしれない。

だから、ここで考えるべきは「私たちは近づきすぎないほうがいいのか」ということだ。相手の嫌な部分を見てしまうくらいなら、それを知らないまま仲良くいたほうがいい。そうともいえる。反対に相手の嫌な部分もある程度許容しながら関わっていく、という考え方もある。

私は後者の考え方だ。相手の嫌な部分を見てしまうのを恐れて相手と距離をとってしまうのはあまりにも惜しい、と思う。それが単なる知り合いや友達程度の人ならいい。しかし、それが親友や家族、恋人となると、相手との距離は少しでも近づきたい、と思うのが本心だ。

あらためて「愛」とは何か考えてみる。それは親にとっては子どもの存在を無条件に肯定する、ということ。つまり、我が子が失敗したり、道を踏み外しそうになった時にときには厳しく、時には優しく諭す、ということ。親の愛は温かい。なぜなら、親は子どもに対して非常に近しい距離で接しているからである。

今日も皆さんが幸せでありますように

本が好き!

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