きょう考えたこと

恐怖と挑戦心

従妹たちと百人一首をやりました。約半年ぶりの百人一首です。私は読み手でしたが、上の句でけだと頭に出てこない下の句が結構ありました(汗)

従妹たちは札の場所をよく暗記してます。

下の句の数音で取りますね。若さですね!

ちなみに私の名前は百人一首第65番、相模の歌にちなんでいます。

恨みわび ほさぬ袖だに あるものを

恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

相模

うらみわびの「きょう考えたこと」第42回。

挑戦はするべきか?

前回は「私たちはみんなが仲良くするべきか」というテーマのもと、自分にとって害となる人物、とりわけ私たちが恐怖を覚える人とは関わらなくてよい、という考えを示した。恐怖心は私たちの身体が示す危険のサインであり、私たちはそのサインに正直に行動する、つまり逃げるのがよい。

人間への恐怖心について うらみわびの【きょう考えたこと】第32回 はたして人間はお互いに恐れてはいけない存在なのだろうか。今回はこの問いに対して...

しかし、そうすることである疑問が湧き上がってくる。それは「挑戦はするべきか」ということだ。

結論からいうと挑戦はするべきだろう。挑戦をすることで私たちは人生において一つ上のステップに進めるように感じる。これは成長という観点にとどまらず、新しい景色を見ることができる、という面において私たちの幸福面を高めてくれる、と思うのだ。

レジャーでいうと、私たちはそこらのビルよりも高い電波塔に上ってみたり、遊園地のフリーフォールやジェットコースター、バンジージャンプ、お化け屋敷など、思わず足がすくむようなアトラクションに対しても果敢に挑んでいく。

ちなみに高いところにいると足がすくむのは脳が「逃げろ」という指令と「動くな」という指令が錯綜しているからだそうだ。

以上のようなアトラクションの爽快感、達成感、壮観というのは一種の苦しみと隣り合わせである。より多くの快感を得るのはリスクを負わなければならない。要はリスクと達成によって得られる利益を天秤にかけることになる。

2種類の挑戦

取り違えてはいけないのは、自己成長の為の挑戦と自己防衛のための挑戦は違う、という点だ。

成長の為の挑戦は、その挑戦を通して多かれ少なかれ新たな知見や経験を得られ、結果として自分の人生の糧となる挑戦を指す。その挑戦には目標、目的とある程度のビジョンがある。

対して自己防衛のための挑戦は、周りから自分への評判を下げないための挑戦である。周りから「何かに取り組んでいる、すごい」というコメントを求めて行動を起こすことである。いわゆる意識「だけ」高い系、といわれるものだ。

問題なのは、自己防衛のための挑戦には、挑戦自体を通しての「やっている」という達成感と、なによりそこから得られる成長が皆無である点である。得られるのは周りからの名声であるが、それも自分がやりたくてやっているものでなければ大した意味はない。

恐怖心は何も生まない

ここから、「自己成長の為の挑戦」をしなければならない、と結論付けるのは時期尚早だ。実は挑戦自体、別段しなくても構わない、という抜本的に異なる提案をしたい。ここには2つの想いがある。

1つ目は、恐怖を感じるくらいならやらなくてもいい、という想いだ。恐怖心は思考を停止させる、ということは前回の項でも記した。

つまり体のパフォーマンスが低下するのだ。そんな状態で物事に挑戦しても効率的に悪い。つまるところ得られるものは少ないのだ。

生きていくうえでリスクを取ることも必要であるが、何が何でもそうしなければならない、というものではない。自分で「これは無理だな」と思ったのなら、それは挑戦する必要はないことだ。

現状維持のすすめ

2つ目は、挑戦ではなく、現状維持も大切である、ということだ。これは特に「成長しなくては」と常に考えているまじめな人たちに対してのものだ。挑戦というのは多少のリスクを伴うものだから、それ相応のエネルギーを消費する。過剰な必要エネルギーは私たちの日々の生活に要するエネルギーから捻出されることが少なくない。

(現代では、趣味や仕事が日々の生活の多くのウェイトを占めており、体を休める時間が少ないと考えている)

そこで、挑戦を続けることは私たちの日々の生活を脅かすことにつながる。そこにも挑戦のリスクが存在する。

私が懸念しているのは、現代を生きる私たちが、少数のエリートの行っている挑戦を模倣しようと躍起になってしまうことである。エリートは思考法や知的体力、好奇心の面において凡人より秀でているものがある。

そんな彼らが「楽にできる」と思っている挑戦は凡人にとっては試練であることもある。そもそも、エリートが「やるべき」という考えが自己の感覚に少なからず依拠していることにも留意したい。

教育の落とし穴

成功体験のコピー

自己啓発本を出すようなエリートたちを広義な意味での教育者として捉えるならば、教育の落とし穴についても触れておいたほうがよいだろう。

それは「教育は自己の成功体験のコピーに終始してはいけない」という点である。

教育の目的である学習者による「学習」は、学習者による自己見識の裾野を広げる作業にほかならない。先生のコピーをつくることではない。ましてや教育者は自らと意見が異なる生徒の意見を「自分と意見が異なる」という理由だけで一蹴してはならない。

ここから私は自己啓発本が駄目だ、とは決していわない。自分の成功体験を示すことは道の可能性を示すことであり、むしろ推奨されるべきだ。

それは読み手の読解力にかかっている

注意しなければならないのは読み手の側である。その情報がはたして自分にとって本当に有効であるのか、利益となるのか、そして達成可能かどうか、よく吟味してみてほしい。

成長の欲求の裏には自分が「変わらなくちゃ」という強い気持ちが透けて見える。それが強い時が自己嫌悪の状態である。

でも、私はいいたい。「変わらなくてもいい」と。自己防衛の為の成長は自分をだまして満足した気になる成長だから。そんなことに人生のエネルギーを使う必要はない。

咲ける場所に身を移す

「置かれた場所で咲きなさい」というのはよくない考え方だ。私たち人間には足がある。「咲ける場所に身を移しなさい」。

よい意味で社会は多様化してきた。私たちの元から持っている才能が開花する場所が必ず存在するはずだ。なければその場所をつくってみてもよい。それこそが意味のある挑戦である。自分をとことん嫌いになる必要はない。自分の持っているものを信じてほしい。

そして現状維持。幸せは案外、私たちの目の前に落ちているものだ。見逃しているだけなのだ。自分で扱えそうにない代物は望んでも意味がない。日々の何気ない生活、そこに幸せを見出そう。

最後に森絵都さんの小説『みかづき』より塾講師の大島吾郎のこの言葉で今回はお開きとする。

「今いるところでおもしろいものをさがせないなら、どこへ行ってもダメ」

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今日も皆さんが幸せでありますように!

本が好き!