きょう考えたこと

動くべき or 動かざるべき?

うらみわびの【きょう考えたこと】第33回

二つの意味を持つ転石のコケ

西洋のことわざに “A rolling stone gathers no moss”というものがある。日本では「転石苔を生ぜず」が対応している。実はこの格言には2つの意味がある。

  1. 居住地や仕事を転々としていては成功しない
  2. 常に新しいところに身を置くものは成功する

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なんと同じ格言が相反する2つの意味を持つのだからおもしろい。

この両者の意味の違いは格言中の ‘moss’、つまり「苔(コケ)」をどう捉えるかによる。苔を「栄養価が高く、これまでの鎮座の証」と捉えるならばの解釈になるし、逆に苔は「石についた汚れであり、新鮮味がない」と捉えればの解釈となる。したがって、ここでは「苔」という共通の物体に対して「良いもの」、「悪いもの」という2つの視点があることになる。どちらの視点をもつかは、その人次第である

人生はどちらの視点で考えるべき?

多様化と専門化する働き方

働き方について考えてみる。現代では若いうちから何事にも挑戦することが良かれとされている。なんといっても働き方ひとつとっても、一つの組織にとどまることなく、様々な組織を経験することが私たちのキャリアと人生を豊かにする、と考えられている。

一方で最近では日本でも海外のようなジョブ型雇用が用いられ始めている。(ジョブ型雇用の説明文埋め込み)

・ジョブ型雇用

採用の際に、特定の業務に対するスキルや資格など実務能力を基準として労働者を採用すること。若手を育てる、というよりも「即戦力採用」の意味合いが強い。

ここから日本が目指そうとしている働き方が見えてくる。ここでは2つの視点で考えられよう。まず、①職種としては、幅広い業務をカバーする総合職よりも、何かのエキスパートを目指すことが良しとされる。②職場としては、これまでの終身雇用の慣例から脱却し、より多くの多様な職場を経験することがプラスになる、といえる。

日本の働き方は、近年のコロナの影響もあり、過渡期に入っているように感じる。少なくともこれまでの終身雇用というある意味絶対的な雇用形態が全てではなくなってきている。

ベテランマスターへの道のりは長い!

ここで働き方を考える基準が必要だ。それは自らのキャリアであり、その先を含めた“人生”であろう。自らの人生にプラスでないことはあまりやりたくない。

しかし、いきなり全てを求めてしまうのは性急だ。儒学の祖である孔子は次のように言っている。

吾れ、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。

孔子ら『論語』 金谷治 訳 岩波書店(1999)p.35

※カッコ内は筆者加筆

孔子のこの考えは驚きだ。十代半ばにして学問を志す。うん、わかる。だけれど、それを極めるのはいつか? それは20代でなければ30,40、いや……70代になってやっと物事が「思うままに振舞え」てそれで「道をはずさなくなる」のだから。いやぁ、ベテランマスターへの道は遠い!

以上より人生には忍耐が必要だということを孔子は教えてくれる。だが、反対に若いうちはあれこれ考えて挑戦してみるのがいいのではないか。物事には試行錯誤が必要だ。何事にも関心と疑問をもつ。趣味でも仕事でも先人や上司の言ったことを鵜呑みにしない。ときには自分の意見も言う、ということがあってもいい。そうしていろんな人と交わって、ときにはバトルして、40代になってやっと「惑わず」となる。これまで色々やってみて、どうしてもうまくいかないことが出てくる。「こりゃ、自分じゃどうしようもないな」と悟る。こうして50代で「天命を知る」。自分の限界を知ってからが人間は本当の意味で強い! 孔子が言いたいのはこういうことじゃないのかな。何事も忍耐と挑戦だ!

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教えるのも忍耐

忍耐は決して己の成長のためだけではない。他者の成長を促すにも忍耐が必要だ。指導とはなにも上から下へ滝のように降りてくるものではない。滝の下の鯉が自ら這い上がるのをひたすら待つのも指導なのである。現在、アメリカのメジャーリーグで活躍、元横浜ベイスターズのキャプテンで4番を務め、少年野球チームのスーパーバイザーもしていた筒香嘉智さんは野球での指導についてこのようにいっている。

(野球)では指導者が選手に最初から答えを与えすぎると選手は言われたことしかできなくなってしまいます。ミスしたときにもすごく怒られる。一つ一つのプレーに必ず何かを言われ、伸び伸びプレーできず、自由な発想や表現ができないのです。

「読売新聞」の記事より抜粋

※カッコ内は筆者加筆

私たちは失敗から多くを学ぶ。それが成長につながる。私たちは失敗から成長する。反対に多くの指摘や叱責は私たちに失敗を恐れる心を植え付ける

能に学ぶ「転石」の両義

人生における忍耐について日本の伝統芸能、からも学ぶところが大きい。能の役者は若手からベテランまでの域が広い。10代~60歳代を超えてもなお活躍する能楽師もいるから驚きだ。

時をさかのぼること室町時代。能を体系化に尽力した世阿弥によると、10代に能の基礎がつくられ、20代で自らの型が決まり、ベテランとの共演等で観衆から注目を浴びることもある。そして30代が己の盛りの時期である、という。

反対に30代でマックスの実力を出すことができなければ修行が足りない、と言わざるを得ない、ということになる。そのために逆算して修行を積まなければならない。

能の技術をあげるにはどうしたらよいのか。世阿弥は主に2つを主張する。

  1. 自らの長所をみつけ、伸ばす
  2. ひたすら基礎を徹底する

①と②。両者は一見、相反するようにもみえる。長所とは言い換えれば「基礎からの逸脱」である。しかし世阿弥は、ひとつひとつの丁寧な所作(基礎)の延長線上に抜きんでた個性(長所)がある、と指摘する。伝統芸能であるがゆえに、芯の通った基礎が重要。それはまるで枝先に綺麗な花を咲かせる木も根っこがしっかりとした巨木であることが望ましいのと同じだ。

同時に世阿弥は「住するところなきをまず花とするべし」ともいう。ここでの「花」とは自然の美しさのことである。自然には2種類がある。

  1. 自分自身の”自然”
  2. 外界の”自然”

自分自身の自然は、容姿や技術、日々の体調などがあたる。外界の自然は、人間関係や天気、場の雰囲気など環境のことである。どちらの「自然」も日々、刻一刻と変化する。この「自然」の妙を読み取り、自分と外界を調和させることを世阿弥は「花」としているのだ。

つまり、同じ場所にとどまらずに変化し続けること。そこに世阿弥が能の最重要と位置づけた「花」への道がある。花は美しく咲くがいつかは散ってしまう。されども散りゆく姿にも趣を感じるのが世阿弥流の能の精神であり日本の感性であろう。

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うらみわび

『風姿花伝』の内容は能だけでなく、仕事や人生についても十分に応用できるもの。一生に一度は読んでおきたい1冊です!

これはビジネスでも人生でも恋愛でもそうである。人間は退屈に弱い生き物である。退屈が怖いから常に新しいものを探し求める。一方で変化を嫌う側面もある。家族や友人、恋人などの大切な人を失うのは辛い。人間には「革新」と「保持」という2面性がある。

要はどちらも大切にしないといけないのである。大切なもの(人間関係や物事の基礎、丹念、思想など)はベースとして変わらずに。でも、常に自分と向き合い、他者から学ぶ姿勢、これも大切だと考える。「転石苔を生ぜず」とはどちらかの意味で捉えるのではなく、どちらの意味でも捉えるべきものなのである。

今日も皆さんが幸せでありますように

本が好き!