きょう考えたこと

”父性”と”母性”

道をまっすぐ歩くのって意外と難しい。

うらみわびの【きょう考えたこと】第35回

 父親の不安

「母性」が語られることは多いが、「父性」が語られることは少ないように感じていた。しかし、最近ではこの「父性」も考えることがあるように感じている。

先日、テレビであるドキュメンタリー番組を見た。20代の大学生が引きこもりになり、彼の1年に密着する、というものだった。結果として、彼は引きこもり当事者が身を寄せ合う宿舎に入り、農作業と散歩という規則正しい生活を送るうちに回復の兆しが見えてきた。

彼は中学高校時代は成績優秀の優等生だったそうだ。そんな彼がなぜ引きこもりになってしまったのか。番組はひとつの可能性に言及する。父親の存在だ。父親は厳格な人だった。彼は番組のインタビューに「父親とはそういう(厳しくあるべき)もの」と語る。実際、この父親は引きこもりとなった息子に対して「いいかげんにしろ」と厳しい文言のメールを送っている。

この父親のスタンスは理解できないわけではない。私はそこに確固たる「強権」というよりは不安を見て取る。それは、息子が社会に通用する人間になってほしい、という願いと、弱い人間は社会から排除されてしまう、世間からは「親の教育が・・・」と言われのが堪えられない、という不安だ。

「父性」はいかにあるべきか。この課題に関して避けて通れないのは「人間はいかにして教育していくべきか」という非常に大きな課題だ。

思うに、人間はそれぞれに合った学習のペースがある。一気に詰め込むのが合う人もいれば、じっくり無理なく学ぶのが好きな人もいる。学習環境も人それぞれ合う、合わないがあるのだ。

 学校教育と深い学び

小中高、日本の学校生活での学習環境では、一様に同じスピードで授業を受ける。これは、最低限の基礎知識を最低限の人員(教員)で一律のスピードで学ぶ(同じタイミングで卒業する)と言う意味では合理的だ。

一見、日本の学校での学習システムはうまくいっているようにみえる。しかし、目に見えないものも考慮に入れなくてはならない。生徒のストレスだ。一律のスピードでの授業では、授業進行が「速い」と思う人から「遅い」と思う人までいる。しかし、まじめな生徒はそのことを口に出さない。口に出したとしても教員から一つのパターンの情報しか提供できない環境では、すべての生徒のニーズに対応するのは困難だ。

理想は生徒が知識の情報にいつでもアクセスでき、自分のペースで学習できるようにすることだ。ここで、生徒の学習達成の時期(卒業の時期)がずれる、という課題にぶつかるわけであるが、教員による一斉講義と生徒個人による演習のハイブリット型の授業にするなど、対応策はある。

一律の一斉講義の授業を受け続けた生徒はこう思うかもしれない。「この世の中には学ぶべき絶対のスピードや学習法が存在する。そして私たちは『それ』を身に付け、学んでいかなければならない」と。

私は彼ら、彼女らにこう伝えたい。「それは違う」と。この世にあるのは「学ぶ対象」だけであって、学ぶべきものも行うべき学習法も存在しない。学校での一斉講義で受けた授業スピードのあの違和感。それは身体が感じた自然な反応だ。その反応をどうか大切にしてほしい。

父親よ、伴走者たれ

長い人生に思いを馳せたとき、学校教育はほんのわずかな期間のものだ。そこで得たものは人生の土壌となるのであるが、学習量で考えると、それからの人生の方が圧倒的に多い。学校を卒業してからが本当の学びであるともいえる。本質的にそこにライバルはいない。薄く広くの学習ではなく、自らを深める学習が待っているのだ。そこには机上の学習だけでなく、仕事や遊びの「経験」も含まれる。スタンスによってはこの世界すべてが学習となる

働き方が変わりつつある。これまではどの組織にいるかが重要になってきた。そこには終身雇用の考え方がある。しかし、時代の流れと共にその考え方は薄れつつある。これからは個人の能力とマネジメント力によって様々な職場を渡り歩くことが多くなろう。主語が職場から労働者個人へと移るのだ。

動くべき or 動かざるべき? うらみわびの【きょう考えたこと】第33回 二つの意味を持つ転石のコケ 西洋のことわざに “A rolling stone ...

そこに至って若者に求められることはなんだろうか。良い学校を出てもよい職場につける補償はない。「父性」はどこへ向かうべきか。

自分で考えて学び続ける姿勢、それがこれからの若者に求められる資質である、と考える。親から言われたことをやるのではなく、自らが目的意識をもって学ぶのである。こう言うと、「何を学べばよいか分からない」という声がありそうだ。学びのヒントをくれるのが学校であり、家庭であり、読書である。言い換えれば、学びの対象を見つけるのではなく、気付くのだ。今ではIT企業の頭角を成しているアップルも初めは2人のエンジニアが自宅のガレージでコンピュータを自作したところから始まった。きっかけは何でもよい。「私はこれをやっている」という自覚達成感があればよい。

翻って親として子供を育てるとき、求められるのは子供の好奇心を満たしてあげることだ。だから、習い事は必ずしも深める必要はないようにも感じる。(一方で、ある程度の苦難を乗り越えなければ味わえない達成感がそこにあるのも事実であるが)

それは子供の可能性の種をまくことである。いずれ子どもたちが大人になった時に、そのなかのいくつかが芽を出し、お互いに支え合いながら巨木へとなっていくことだろう。

子どもが道に迷ったときに癒すのが「母性」であり、「道を示す」のが「父性」である。しかし、「父性」は決して子どもの先を行き過ぎてはいけない。子どもの伴走者であるべきだ。子どもは自分のコピー足りえない。ほとんどの子どもが親とは異なる職業に就く。頼りになるのが父親のもつ多くの経験である。

一方で子供に多くを与えすぎてもいけない。それは子どもが自ら考え行動する、失敗して学ぶ機会を奪うからだ。学びはむしろ失敗から多くを得られる。

野球では)指導者が選手に最初から答えを与えすぎ、選手は言われたことしかできなくなってしまいます。ミスしたときにもすごく怒られる。1つ1つのプレーに必ず何かを言われ、伸び伸びとプレーできず、自由な発想や表現ができないのです。

 

筒香嘉智 選手(当時、小学生野球チームスーパーバイザー) 

加えて、職場の組織では、「母性」が足りないように感じる。それは単に女性が少ないことを意味するのではない。男性を含めた「組織」に母性が足りないのだ。

人は失敗して学ぶ。若い人とベテランとの大きな差は経験値の差である。直観は経験に依拠している。そして仕事の成否を左右するビジョンは直観によるところも大きい。若手を失敗をこっぴどく叱るのは組織の命運を左右することへの不安からに他ならない。しかし、若手の失敗を恐れているのでは組織は将来的に成功しない。子どもの過ちを受け止め、抱きしめ、背中を押してやるのが「母性」だ。

ひとつ厳しいことをいうのであれば、人を育てるのも学びだ。若手の失敗からベテランが学ぶことも多い。そこに世代間の考え方の違いや時代の変遷を見て取れるからだ。若手を上手に育てられないのは、上司の学びが足りないことに他ならない。

学びは自己の研鑽と自己の外での失敗と経験による。私たちは自らが学ぶ姿勢を持ち、他者の学習に敬意をもつことが大切である。

そして一時期、教育に携わった私を顧みると、生徒の成績を上げる、具体的にはテストの点数を上げる、という一点に注視していた自分が情けない。そこには「母性」がなかった。私自身が学ぶ姿勢がなかった。

今日も皆さんが幸せでありますように

本が好き!