============ここからはネタバレを含みます。視聴を控えている方はご注意ください============
人体錬成は完全なのか
第25話におけるヒューズ中佐の死は泣いた。しばらく立ち直れなかった。藤原さんの声をもっと聴きたかった。親ばかの生きざまをもっと見たかった。
さて、印象的だったのは第25話の最後、ヒューズ中佐(死後、昇進して准将)の棺が埋められる場面である。娘が泣きながら「なんでパパを埋めちゃうの。お仕事できなくなっちゃうよ。埋めないで」とすがる。これが人が死んだときの身近な人の自然な反応だろう。このシーンはエルリック兄弟の母親がなくなるシーンと重なる。
人は「死にたくない」と思う生き物だし、大切な人にも「死んでほしくない」と思っている。大切な人をなくしたら取り戻したくもなる。しかし現実にはそれはできない(難しい)。
しかしもし科学の力でそれが可能だとしたらどうだろうか。錬金術の「等価交換の原則」は人間の体を構成する物質を錬成する、という理論上ではそれを可能にした。人を生き返らせることが可能なら我々は人を生き返らせるだろうか。これは哲学だが議論に値する。
私は人を生き返らせることには反対である。ただしこれには条件がある。
生きるからには我々は幸せでありたい。生き地獄なら死んだ方がましかもしれない。ここに幸せな人生の要素を1つ示しておく。
- 老いないこと
「老い」は痛みを伴う。体が病魔にむしばまれ、できることがすくなくなっていく。こんな人生は嫌である。痛みを抱えたまま何百年何千年と行きたくはない。自分が死んでも他の誰かが生き返らせてくれる、そんな人生は痛みが伴うなら苦痛でしかない。
エルリック兄弟の母はなんらかの病気を抱えていたようである。生き返ったところで、その病気を治さなければ意味がない。いずれにしても「不死」だけでなく「不老不死」でなければ、我々はどこかで死んだ方がいいのかもしれない。
そして仮に錬金術によって錬成された人間がかつての本人の容姿と記憶を持っていたとしても我々はそれを過去のそれと同一人物だと自信を持って言えるのだろうか。錬金術といっても人体という器を錬成して、それに錬成者の記憶の中にある人の魂を器に入れるのであるから、どこかで魂における情報の齟齬がおきてもおかしくはない。人間だれしも本人以外、その人のことを100%知っている人はいないのである。(もしかしたら当の本人でさえ、理解していないのかもしれない)
したがって人体錬成の前後でよみがえった人は同一人物とは呼べない。このことについては物語の道中でアルフォンスも自問している。(なかには「魂さえ完全なら問題ない」という人もいるかもしれない。そんな方にはホラーゲーム”SOMA”をプレイすることを勧める)
どこまで人間なのだろう
物語の中でアルフォンスは自分は本当にエドワード・エルリックの弟アルフォンス・エルリックなのか、と自問する。彼がアルフォンスではないとする証拠は以下のとおりである。
- 自分には人間の体があったころの記憶が曖昧である
- そもそも自分は甲冑に魂が込められただけで肉体をもっていない
特に2番目は興味深い。あなたの1番大切な人を思い浮かべてほしい。仮にその人が不慮の事故で亡くなってしまったとする。しかし時代の進歩により科学の力であなたの1番大切な人の思考を完全にインプットされたロボットがあなたに与えられたとする。見た目こそ違うものの、普段通りに会話ができるし、過去の思い出話だってできる、これからすばらしい思い出の数々を残すことだってできるだろう。はたして今あなたの目の前にいるロボットはあなたの1番大切な人そのものだと、言えるだろうか。
もし答えが’No.‘なら、その理由を考えてみてほしい。 仮にその答えが「見た目」であったとしよう。目の前にいるのは無機質な鉄のかたまり、ロボットだ。かつてのあなたの大切な人は肉体を持った生身の人間だった。では、肉体があれば人間と呼べるのか。そうであるとすると、「肉体がどの程度まであれば、人間とよべるのか」といった疑問もわいてくる。実際に我々の身の回りには義手や義足をした人たちがいる。ちょうどエドワードのように。私はもちろん彼ら、彼女らは人間であると断言する。しかし肉体の割合が減っていき、器具の部分が増えていく、極端な話、アルフォンスのように、肉体はないが話せる、といったような存在まで、我々はどこまでを人間と呼ぶのかも人によって違うのではないだろうかと想像する。
しかし物語のなかでエドワードは甲冑になってしまったアルフォンスもかつてのアルフォンスである、と断言する。その一方でエドワードは「賢者の石」でアルフォンスをもとの姿に戻そうとしている。心の中では肉体があったほうがよい、と考えている証拠である。 この世の「等価交換の原則」 この物語は「等価交換の原則」からスタートする。あたかもそれがこの世のルールであるかのように・・・。では、我々が暮らすこの社会ではどうだろう?
- りんごを1玉120円で買う。
- クッキーをあげてアメをもらう
- 彼に尽くして信用を勝ち取る 等々
思えばこの世は等価交換で成り立っているようにも思える。経済なんかはそうか・・・。しかしそれだけだとなんだか味気ない気もする。
世の中には世話好きな人がいる。彼ら彼女らは恩をうりまくっている。ある人が見たら「あいつらは心の奥底ではなにかを得られると欲してるんだ」というかもしれない。私の知り合いに海外へのボランティアに精力的に働く人がいる。ある日、彼女はネットで「お前がやっていることは自己満足だ」といった趣旨の話をされたそうだ。彼女は非常に悩んでいた。自分がしてきたことは自己満足で将来のキャリアの為だったのかと。私は2つのことをいいたい。
- 恩は与えっぱなしでいい。それでも喜ぶ人が目の前にいるなら。
- 自己満足でもいいじゃないか。人にとって最もつらいことは「無意味なこと」である。逆に意味のあることは少なからず我々に利益をもたらす
人は無意識のうちに等価交換の原則のレールの上にいるのかもしれない。
無から価値を生み出す
等価交換の原則で生きている、というと息苦しさを感じるのはもしかしたら、その前提として我々個人が価値ある物を持っていなければならないと思っているからかもしれない。しかし落胆するのはまだ早い。何もないところから価値を生み出す術はある。それは努力することである。これはかつての記事
分からないことがあるならば、人生のあらゆるタイミングで学びなおせばいい。知識、努力、そこから得られる他者からの信頼等々は我々が無から作り上げた代物である。我々が何も持っていないから、と落胆する必要はない(これからつくればいい)し、世の中で成功している人は常に無から何かを作り続けているのかもしれない。
今日も皆さんが幸せでありますように
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