この本がおもしろい!

心の底から欲しかったものはココにある!L.Frank.Baum著『オズの魔法使い』を読む

 大切なものは自分の中にある

ドロシーは旅先でカカシ、ブリキの木こり、ライオンに遭うわけであるが、それぞれのキャラクターが自分にはないものを求めようとしている。

・ドロシー: わがままで自己中心的。カンザスに帰りたい。

         → 冒険を通して自ら、他者との関りの大切さを知る

  ・カカシ: 自ら考える脳を求める。

        → もともと自分には知識と創造性があることを知る

  ・ブリキの木こり: 心を求める。

         → もともと自分には他者を思いやる心があることを知る

  ・臆病なライオン: 勇敢さを求める。

         → もともと自分は勇敢であったことに気づく

  

ここで大切なことは、それぞれのキャラクターの求めていたものは、もともと自分たちのなかに備わっていた、ということだ。そして、自分自身では気づいていない自分が持っている美徳というものを「冒険」という困難を通して気づくことができた、ということである。

私はしばしば実感することであるが、他の人が実践しているものを見て、「なるほど。それはは気づかなかった」、「なんで自分はこんなことに気づかなかったのか」とそれを知らなかった自分を恥じるのである。

しかし、それは恥じるに値しない、と最近では考えている。むしろ、私たちはそれを気づくことができた自分をほめるべきである。なぜなら、それを気づくことができたのは、まさしく自分自身であり、他の人が同じものを見てもそれに気づかない可能性だってあるのだから。

暗黙知というものが存在する。それは人間の知識の集合体と考えてよい。教育研究家の齋藤孝さんはこの暗黙知を魚を捕まえる網のようなもの、と捉えている。つまり、知識という名の網に引っ掛かって初めて情報は自分のものとなる、ということである。

したがって、暗黙知の網、つまり知識を広げないことには有用な情報が自分のものにならない、言い換えれば、何が自分にとって有用な情報か分からない、ということである。

自分にとって有用な情報を手に入れられた、と実感するということは、自分がそれだけの知識の裾野を広げられた、ということの結果でもある。それはとてもすばらしいことだし、新たな情報を得られたことは喜ばしいことだ。自分がこれまで培ってきたものが繋がっているということなのだから。

「冒険」、「挑戦」という困難。それは気づきを得るためのトリガーでしかなく、気づきの本質は私たち自身の内側にある暗黙知と「知りたい」、「手に入れたい」という成長の欲求なのである。

 巨大企業、エメラルドシティ

ドロシーが迷い込んだ未知の国は町全体が緑一色に染まり、町人も皆緑の服に身を包んでいる。そして誰もがなぜ町が緑であるのか、その理由を知らない。

この光景と大勢が働く巨大企業を重ね合わせる。巨大企業は大所帯がゆえに意思の疎通が困難である、という問題がある。平社員が会社の企業理念や上司の指示が明確に行き届かないことがあり、それぞれが目的を明確に理解しないまま働くことになる。そうなると業務の方向性が定まらず、そんな状態が続くと、いつしかそこにいるだれもが自らがどこへ向かっているのか、分からなくなってしまう。

エメラルドシティの住人がまさしくその状態にある、と私はみている。彼らは自らがなぜ緑の装束に身を包んでいるのかはよく分からないが、緑はきっといい色であると信じており、なにより自らがオズの魔法の力(実際は魔法ではない)にあずかっているので、疑うこと自体が愚問であると思っている。

そして、住民たちはオズの顔すら見たことがない。これは現代の民主主義国家の考え方からすればかなり危険な状態である。誰が何を決定して、何を行っているのかが全く見えてこない、いわば政治がブラックボックス化してしまっている。例えば、私たちは電子機器の恩恵にあずかっているが、それが災害リスクのある原子力発電や環境負荷の大きい石炭火力発電によってまかなわれていることを知らなかったとしたら、レジ袋が石油でできていることを知らなかったとしたら。今はいいかもしれない。でも将来の私たち及び私たちの子孫が苦難を被る可能性があるのだ。私たちは知らなければならない。そのために問わなければならない

 オズは与える人

オズは結局のところ魔法が使えないペテン師だったわけであるが、彼の功績がなかった、といったら嘘になるだろう。彼は実際にドロシーたちが自らに臨んでいた能力がある、ということを気づかせてくれたのだから。彼のやっていたことは人々をだましたのだから決して正しいことではない。だから断罪されるべきかもしれないが、広い観点からみれば、彼の存在なしにこの物語のハッピーエンドはない。しかし、正しくないやり方が、結果的に真実をあぶりだすことがある。こんな言葉がある。

いつわりの事実が本質的には真実であることがあるのだ

ボルヘス(アルゼンチンの作家)

このことで一番考えさせられるのが政治の分野ではないだろうか。「政治は結果である」とはよく言われる。それは政策決定や政策実行に際して、どんな道を歩もうとも「結果良ければすべて良し」という考え方である。ここではこのことに対する是非は示さないが、このことに関して、私たちは個々のなかで考えるべきことだと思う。

オズは言葉たくみに住民をだましたわけであるが、結果として、一時的であるかもしれないが彼らを幸せにした。そして彼はドロシーたちの能力を引きだすインフルエンサーでもあった。人間の多様性の観点から考えると彼のような存在は決して否定されるべきものではないのかもしれない。「騙されたと思って」彼によれば、人は幸せになれるのだから。

『オズの魔法使い』は子どもでも読める平易な物語であるが、そこには大人も含めた人間に通ずる普遍的なメッセージがちりばめられている。難解なメッセージを少女たちの冒険というアドベンチャーに落とし込んだ作者のボーム氏の力量には驚かされるばかりである。

今日も皆さんが幸せでありますように!

本が好き!

1 2