自殺は絶対悪か?
そこで、自殺はどんなときもしてはいけないのか、について考えていきたい。前述の論理で行くと、あくまでも穏健派の原則に基づけば、自殺はどんなときでも許容されないことになる。計算結果が正確性に欠け、総和がマイナスとなるケースが多いからだ。
しかし、このことに対して疑問をもつ人も多いのではないか。「本当に自殺はしてはいけないものなのか」と。ここで注意していただきたいのは、これから述べることは、あくまで自殺そのものが決して許されないものではない、という結論を導くことであり、決して自殺を勧めることではない、という点である。私はこの世の苦しむ人たちが真の意味において不本意な自殺をしてほしくない、と思っている。すべての人が幸せになる権利をもっている、と考えている。
「自殺は絶対にしてはいけない」と言う人は一定数いる。もしかしたらこちらが多数派かもしれない。このような考えを支える論として、本書では主に2つを上げている。1つ目は道徳論だ。これは、自殺は道徳的には許されない、ということを主張している。2つ目は義務論だ。こちらは、他者に迷惑をかけてはいけない、というのが主な主張だ。
私はどちらの論にも一理あるように思えるし、この論に乗っ取って生きるのは、それもよいことだと考える。しかし、私自身はこのどちらの論も絶対の正解ではない、と考える。正確にいえば、一人の人の人生に正解など存在しないのだ。したがって、その人が生きたいように生きるのが、ここでいうところの唯一の「正解」といえるだろう。
実際にところ、よほどの悲観論者でない限り、はじめから自らが命を絶ちたいと思う人はいないだろう。みんなはじめは生きたいのだ。しかし、そんな人でも死にたいと思うことがある。それは生きたいという気持ちを覆いかぶせるほどの苦しみを現に今、味わっているからだ。その苦しみは本人にしか分からない。本人にしか分からない痛みだからだ。これは虫に刺されるのとは次元が違う。誰がなんと言おうと、本人が死にたいほど苦しいのであれば、それは「死にたいほど苦しい」のだ。
一方で、この「死にたいほど苦しい」という気持ちは、苦しさが本人の思考を麻痺させている、と考える人もいるだろう。本書の著者のシェリー先生もこう述べている。
(自殺しようとする人に出会ったら) しつこいほど念には念を入れ、その人が苦悩に苛まれて振舞っているのであって、明晰に考えているわけではなく、情報の通じているわけでもなく、あまり有能なわけでもなく、それなりの理由があって行動しているのでもないに違いないと想定するべきだ。
私はこのような考え方に理解は示すが、反対である。確かにその時点では、適切な決断はできないかもしれない。しかし、時間をおいても本人の意思が固いのであれば、その自殺をとめることができる人はいないと思うし、早まって自殺してしまったとしても、その自殺があたかも「間違い」だった、というようなことはいえない、と思うのだ。
本書において、シェリー先生は自殺に対する適切な態度を探っているが、私には彼が唯一の正解を探しているように思える。前述したように、人生の処し方に正解も不正解もないと考える。したがって、「正解らしきもの」はあっても、「絶対の正解」は存在しない。これについてはシェリー先生もある程度は納得されているように思う。
(自殺をしようとすることを止めることは)自殺をけっして許可してはならないという強固な結論を受け容れることは同じではない。
この点は実際には安楽死の概念に結びつく。現在の日本では安楽死は認められていない。安楽死については活発な議論に期待している。そのためにも、我々一人ひとりがこの「死」について考えることが必要だと考える。
最後に
「死」は皆に訪れる。そして死は永遠の謎である。それは死は1度切りであり、現在生きている我々の誰も死を経験していないからだ。だからといって、私たちがこの「死」から目を背けるべきではないだろう。「死」は「生」と直結している。「死」は人生のゴールである。ゴールを見据えることでこれからの生き方も見えてくると思う。
今日も皆さんが幸せでありますように