うらみわびの【きょう考えたこと】第14回
学校の授業や、日々のお仕事、何かとストレスが溜まる。こんなことはないだろうか。
- 企画書を出すのが億劫。
- プレゼンのアイデアが固まらない。
- ブログに何を書けばいいのか分からない。
最後のは私個人の悩みかもしれない(笑) この3つに共通するであろうことがある。それは「恐怖心」である。上司に企画案を突っぱねられるのが怖いから、企画書を書けない。質問攻めにあうのが怖いから、プレゼンをつくれない。あとで批判されないか怖いからブログが書けない。自分から情報を発信するのに二の足を踏んでしまう。
最近、「近頃のニュース番組は訂正が多すぎる。なってない。」と家族が言う。確かに訂正が多い。しかしこれが一概に悪いことだとは思えない。もしかしたら今までは、間違いがあったとしても、番組中に訂正されてなかっただけかもしれない。それは、単にチェック体制が万全じゃなかったか、後で訂正しようと考えていたのかもしれない。反対に最近の番組はチェック体制が万全でオープンだといえる。訂正の速さに逆に驚く。
そもそも番組は大勢の人が携わってできている。誰に訂正の責任があるのか、責任の所在が明らかではない。でも、訂正し、謝罪するのはいつもアナウンサー、キャスターである。ここに一抹の違和感を覚える。
過ちを認めることはなによりも大切なことだ。過ちを犯さないことよりも難しく、大切だと思う。「近頃の政府は間違いがあっても謝罪をしない」という人がいる。誤りがあるなら、ただちに謝罪をし、責任の所在を明らかにするべきだと考える。
一方で、謝罪をしたら鬼の首を取ったように攻め立てる人々には恐怖を覚える。すぐに責任を取れ、と言う。では、具体的にどのように責任を取ればよいのか、過ちに見合った責任の取り方は何か、その議論が希薄な感が否めない。それでは、間違いを犯したら命を絶つ、切腹のようではないか。
責任追及が大きく叫ばれると、思い切った行動がとれなくなる。先の企画書の例などもそうである。物事を見極める人(先の例では企画書を見る上司など)にお願いしたい。どうか大きな器をもって見てほしい。あなたがだれかの成果物を精査する立場にあるということは、あなたのほうが、一定の多くの知識量を持っている、ということである。出る杭を打つのではなく、間違いをとがめるのではなく、あなたの深い知識でそれをカバーしてあげてはいかがか。そもそも私たちは時としてチームで動いている。チームの仲間が二の足を踏まないように、闊達な活動が阻害されないように、リーダーは気を配ってほしい。誰もがストレスを感じるような重苦しい雰囲気は、ひいてはチーム全体の負債である。
それと同時に、恐怖から行動できない人たちへ。間違いを恐れることは悪いことではない。それを気にすること自体がよいことだ。自分で自分を戒められる人格の気高さの象徴である。そんなあなたは美しい。しかし、恐れているだけでは前に進まない。自分の色を出せないのであれば、組織から疎外されるか、他者に迎合するだけの人間になってしまう。壁にぶつかりながら成長していくのである。みんなマリオカートを始めたときはそうであっただろう。