この前駅前を歩いていると、高校生がハンディ扇風機を片手に歩いていました。ハンディタイプなんてありそうでなかった代物ですよね。近頃になって様々なものが開発され、高校生が学校に持ってくるものも増えたな、と感じています。湿度が高く、不快指数が増してくる今日この頃。我が家はエアコンと扇風機の合わせ技でしのいでいます。
うらみわびの【きょう考えたこと】第34回
飲み会なんかに行くと、よく話す人とあまり話さない人が見受けられる。それはそれでいいことだと個人的には思うのだが、それを良しとは思わない人もいるようだ。
私は友人に誘われて学生から社会人までが集まる飲み会に参加したことがある。この飲み会の趣旨は2つあったと認識している。1つは英語を会話言語の基本とすることで、英会話力を鍛えること。2つ目は年齢や職業の異なる者どうしの交流だ。
会話の型と人数
会話にはどうやら、それに適した人数というものがあるようだ。思うに4人が最適で、多くて5人ないし6人が限界だろう。それ以上は特定の誰かが話し続けることが多いのように感じる。
同時に会話自体にもいくつかのスタンスがあるように思えるのだ。ここでは主に2種類を挙げる。
- キャッチボール型:両者がほぼ同じ会話量
- ピッチング型 :一方が話し続ける。一方が受け続ける。
キャッチボール型は、一方が発言という名のボールを投げたら、他方がボールを投げ返す会話である。具体的には意見や感想に対して、意見や感想で返す場合だ。
一方、ピッチング型は野球でピッチャーがキャッチャーを座らせた状態で投球するのをイメージしていただけるとよい。キャッチャーがピッチャーの球を受け続けるように、会話では、相手の話に相槌を打ったりして聞き続けるのだ。どちらかが会話の主導権を握っている。
会話の種類は以上の他に会話の内容や場所、形態(雑談や討論など)によってさらに細かく分かれる。それと同時に私たちの性格上のスタンスも関わっている。もちろん、私たちが自らのスタンスとは関係なく、その場の状況に応じて自らの会話への参加の仕方を変えているのは言うまでもない。
話題を引きだす質問とは?
話したい人、話したくない人
さて、そんななかで私は友人主催の飲み会に参加したわけなのだが、毎回のように友人から「お前がもっと喋れ」と言われる。私はこのことに対して違和感を感じざるを得ない。理由は2つある。第一に、私は相手の話を受け止めるタイプの会話の参加法を好む、ということだ。私は自分の意見を大っぴらにすることは好まない。それが意見の押し売りに感じてしまうからだ。
第二に、この種の飲み会はよく喋る「話したがり屋」がいるのだ。ただでさえ、発言権が回ってこないのに、その人が話をしている間は話題をそらさないように気を遣うから、自分の話などできるわけがないではないか。ここで求められるのは、取り巻きが「話す」ことではなく、「話したがり屋」を「黙らせる」ことなのだ。
ここまでくると気づくことがあろう。「そんな飲み会はつまらない」ということだ。そもそも飲み会というのはお酒を交えながら各人が思い思いに話す場だ。話したい人が話せばいい。こちらも合いの手や話に合わせる手法は心得ている。
一人はいるでしょ「黙る人」
さらに申し上げれば、話さない人、「黙る人」に対して発言を強要すること自体がナンセンスである。これは後述するように黙る人にも黙る人なりの考えがあって黙っているのだ。会話の手法はいくつもあることは前述した。しかし、話すことを強要するのは、一つの会話のパターンの強要に他ならない。(ここではキャッチボール型の会話の強要)
黙る人を会話に参加させたいのであれば、質問をすればいい。以下に三種をあげておく。
- そういえば・・・
- ○○はどう思う。
- この前、○○って言っていたけど、・・・
黙る人には、できるだけ具体的な質問を投げかけることだ。話題を限定してあげることで、相手が話やすいようにするのだ。それと同時に、質問を投げかけることで、会話の手番を相手に移すことが明確になる。質問という観点に立つと、「お前も(何か)喋れ」ということがいかに抽象的で配慮に欠ける言葉かが分かる。
黙る人は何を考えている?
黙る人が話題をもっていないこと自体が問題だ、という人もおろう。しかし、それは必ずしもそうではない。黙る人は黙る人なりの論理があるのだ。
黙る人はなぜ黙るのか。ここでは3つを示す。
- 争点を与えたくない
- 話相手として不相応だと感じている
- 話す話題がない、聞くに徹している
話していると、様々な話題について様々な論が展開される。その中には自らの考えと合わないものが含まれていることがある。反対意見をいつでも表明することが適切とはいえない。飲み会の場ではそうであろう。「私はそうは思わない」というのは、会話に水を差す行為だ。話の腰を折らないためにも敢えて自分の意見は封印している。反対意見に変えて相手の話に耳を傾けているのだ。このようにして争点をつくるのを回避しているのである。これを私はテレビのコメンテーター的話法と呼んでいる。
(こう聞くと、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれない。私が思うにテレビ番組で思ったことをすべて話すコメンテーターは三流である。番組にはそれぞれスタンスがある。そのスタンスから逸れない話を提供することが無難である。『朝まで生テレビ』のような討論番組は話が別だが)
「相手に自分の意見を言っても無駄だ」、「ちゃんと取り合ってくれない」、「自分の意見は相手には理解できない」という諦めが黙る人の背後にあることがある。これは話し相手そのものに対してだけでなく、場の雰囲気などにも左右されよう。
また、話の内容や相手の話し方によっては、「自分がでしゃばらないほうがいいな」と考えることもある。この時は黙る人は聞くに徹しているわけで、決して話題がないわけではない。
もしくは、自分の守備範囲の話題ではないので、聞き手に回っていることがある。
黙る人の背景にはこのような様々な思惑がある。したがって、黙る人を「話題がない」人とひとくくりにしてはいけない。むしろ、黙る人は思慮深い人である。場の雰囲気を察し、会話の流れを察し、発話者と聞き手の役割をほどよい案配でこなしているのである。