うらみわびの【きょう考えたこと】第16回
子どもを追い詰める暴力
私は前から考えてきたことがある。それは「子供にとって最悪な家庭とは何か」ということである。一概にはいえないが、身体的かつ精神的に子供を追い詰める「暴力」にがひとつあげられる。
私も幼いころから祖父の暴力に苦しめられてきた。であるので、世間の虐待事件をみると、どうしても自分の経験と重ねてしまう。そんな私であるが、「最悪」な環境で育ったわけではないと思っている。これは暴力の強弱のことではない。あくまで環境面のことである。
「最悪な」暴力の家庭の環境を想像してみたときに、私は1間のアパートを思い浮かべる。だが、それがなぜなのかよく分からなかった。家庭が経済的に貧しいからなのか。家がおんぼろだからなのか。しかしそこには私の育った環境と決定的に違うものがあった。それは部屋が1つしかないことである。暴力の絶えない家庭は、ひどいものだと毎日のように暴力を振るわれる。もし部屋が数部屋あればそこに避難することも可能だ。しかし1間の家にはそれがない。これは子どもにとって心の逃げ場がないことを意味する。
反対に自分の部屋が与えられている子どもは幸せだと思う。子どもだっていっぱしに悩むことがある。大人に比べて経験則が少ないから大人がそんなに悩まないことでも真剣に悩むことだってある。特に交友関係のトラブルは大きい。その悩みを一人で抱え込む子も多い。
そんなときに大人には「相談すればよかったのに」と言う人もいる。これは優しさからであるが、子どもにも言い分がある。悩みを打ち明けることが自分の弱さを露呈してしまうことになるのではないか、という不安である。
「なんだ。それしきのことか」と思うかもしれないが、繊細な心をもつ子どもにとってこれは重大ごとだ。私はこういったとき、子どもはひとりで悩んでいい、とおもっている。明らかな答えが彼らを救うのではなく、悩みに悩んで過ごした時間すべてが子どもたちを癒し、前へ進ませてくれるのだ。
学校であればケンカは先生が仲裁してくれる。これは単なる指導ではなく、滞りないいいえクラス運営を考えてのことでもある。しかし、家で大人は先生と同じ対応を取らないほうがいいときもある、と考える。子どもにもそれぞれ言い分がある。学校ではケンカのほとんどが喧嘩両成敗で解決してしまうが、各人にしこりが残ることも多々ある。
家は子どもにとっての心の砦だ。そこでは子供が大人の意見を飲まされるのではなく、じっくり自分の言い分と他者のそれとをすり合わせる時間を与えてあげてほしいのだ。
話を戻すと、虐待はそれ自体が悪いだけでなく、心の避難場所が家にない家庭は子どもはナイーブな心に大人の残虐さをもろに受けることとなる。これは考えただけでもおぞましい。家庭内の虐待の恐ろしいところは子供の心の砦が、彼らを最も苦しめる場所に変わってしまっている、という点にある。
夫婦がもとめる安寧
話をすこし変える。では、大人にとっての家庭は心の砦となりえているか。私は、家庭内がある種の世間の「あるべき姿」像にとらわれて実に過ごしにくい場所になっているのではないか、と危惧している。
例えば収納について。家族の中には綺麗好きの人もいるだろう。しかしさまざまな趣向、感じ方、考え方が存在するのも家族だ。「血は争えない」、というが案外細かいところは似ないものだ。奥さんは仕事から帰宅した旦那の靴の脱ぎ方、靴下の脱ぎ方からコートの掛け方まで毎晩事細かにダメ出しをする。「なんでアンタはいつもそうなの」、「なんど言ったら分かるのよ」。「うるせえ。これでいいんだよ」なんて喧嘩がはじまる。こんな家庭が多いのではないだろうか。
私はこの夫婦の例をとって、奥さんがもっと歩み寄るべきだ、とか、夫がもっとしっかりするべきだ、などと言うつもりはない。しかし、どこかでする合わせはしておくべきであろう。これは直接的な解決策ではないが、夫が帰宅してきたら、夫がまず「いつも夕飯ありがとう」とか「早く帰ってきてたんだ。おつかれさま」とか言ってみたらどうだろうか。はじめは、こそばゆいかもしれない。でもダメ出しして喧嘩するよりはいい。お互い日々の生活でストレスを抱えているものである。家庭でもストレスをためるのは避けたい
大人にとっても家庭は心の避難場所であるべきだ。ただ、結婚などして家族が増えると自分の居場所が気づいたらなくなっている、ということもある。だから意識して心の避難場所をつくらなけらばならない。自分の部屋を持つのがベストだが、それができなくても、例えばリビングで「自分スペース」を簡易的につくってみるのもいいだろう。大切なのは家族がお互いに自分の居場所を確保する必要があることを話し合って、共有しておくことだ。「自分時間」はたとえ家族と同じ部屋にいても会話はなくてもいい、そんな取り決めがなされていたらよい。
世間では夫婦は仲良く、が良いとされているが、所詮、きれいごとである。それができる夫婦がどれだけいるだろうか。しかし、それができないからといって無理に仲の良い夫婦を演じる必要はない。だって家庭内に世間の皆様方は入って来ないのだから。この価値観と先ほどの心の避難場所の考え方を合わせるとあるべき家庭像が見えてくるのではないだろうか。
かつては「規律」を重んじてきた家庭も多いだろう。しかし世間ではグローバル化や多様性がもてはやされている時代である。考え方は人それぞれであるが、ここは一旦立ち止まって、世間の目を気にせずに心休まる家庭をもう一度思い描いてみてはどうだろうか。
今日も皆さんが幸せでありますように