きょう考えたこと

思考のスピード感覚

うらみわびの【きょう考えたこと】第27回

動作には意味がある

私たちは生きていくうえで様々な”スピード”を感じている。例えば私が日々使う電車は発車して時速40~60キロほどにまで加速した後、減速し、停車駅で停車(時速0キロ)になる。電車の動きはこの繰り返しである。私たちは電車を利用しながらこの一連の動作を繰り返し体感する。

この電車の一連の動作は大きく分けて3つに分類できる。”加速”、”維持”、”減速”だ。ブレーキを戻しアクセルを入れたときから電車は動き出す。ここが”加速”だ。加速はモーターを徐々に高速回転させながらスピードを上げていく動作である。

それからスピードの”維持”へと移行する。ここでは前の電車との車間を調節したり、カーブの有無や勾配などを考慮して、ちょうどよい速度を維持する動作である。

最後に電車は停車位置へ停車するために”減速”を行う。これは”加速”の反対で車輪の回転を徐々に減らしながら速度を落としていく動作である。

ここまでは当たり前といえば当たり前の動作の説明である。ここで大切なのは「それぞれの動作に意味がある」ということである。

動作における2つの概念

”スピード”を操る

立つ、歩く、座る、書く、話す…… それぞれの動作は1つのようで、細かく見れば多くの動作が含まれていることが分かるだろう。「立つ」ことひとつをとっても、ひざの曲げ伸ばしやかかとの踏ん張り、太ももの筋肉の動きなど、動きのポイントとなるところがある。それでも私たちはそれを意識せずに行っている人が多いのではないだろうか。

同時にこれらの動作には”スピード”という尺度もある。早く歩く/遅く歩く などである。この”スピード”の違いはひとえに先ほどの細かな「動作」の違いによってなされるといえよう。

私はこの動作の”スピード”に着目したい。というのも、この”スピード”の「速い」、「遅い」にはそれぞれ意味があるからである。そして、その意味を理解すること。最終的には”スピード”を操ることができれば、私たちの動作に深みが出てくる。これは千差万別の人間たちのなかで生きる者として多くの人に共感され評価される人となることができるだろう、と考えるからである。

二つの動作

今回は「歩く」ということについて考えていきたい。実は「歩く」というのも奥が深い。よく「散歩をすると考えがひらめきやすい」とか「人は歩きながら考える」とかいうのを聞いたことはないだろうか。これは私も体験しているところで、例えばこのブログのアイデアなんかも朝散歩や仕事の帰り道に歩いている時にひらめくことが多い。電話で人と話すときに無意識に歩いてしまうのも似た現象かもしれない。

興味深いのは、同じ「歩く」という行為でもアイデアがひらめく時とひらめかない時がある、ということである。あくまで私の体験をもとに結論を申し上げると、速く歩くときにはアイデアは浮かびにくく、ゆっくり歩くときにアイデアは浮かびやすい。

以上はあくまでも推測だが、その理由はわかりやすい。往々にして動作を速く行うことはゆっくり行うことより難しい。車を運転するとき、歩くときには刻一刻と変化する状況に対応しなくてはならならない。字を書くときには、速く書くと字が汚くなってしまう。スピードが速くなると、動作の正確性が下がる。

それは私たちが制御しなくてはならない、思考しなくてはならないことが多いから。脳や体に負荷がかかっているからであると考えられる。

「歩く」という動作と「アイデアがひらめく」という動作はそれぞれ独立した別個の動作である。要するに「歩き」ながら「アイデアがひらめく」というのは2つの動作が同時に行われたということである。

したがって、速くあるくときにアイデアがひらめきにくいのは、速く「歩く」ことに負荷がかかり過ぎて、「アイデアがひらめく」という動作に意識が向きにくいから、ということが考えられる。

”速さ”が高次元を生む

ただ、物事を速く行うことは決して悪いことではない。速く作業ができることは生産性が高いということを直接意味するし、速く考えることは、多くのアイデアを量産し、結果として石ころの中から原石が見つかることとなる。

大切なことは「速く行うこと」と「ゆっくり行うこと」、この二つの長所を理解すること。そしてその両方を使いこなすことである。

例えば、会議の場であれば、アイデアをたくさん持ち寄ることが求められる。アップルの創業者スティーブ・ジョブズは「アイデアは1つだけもってこい。最高のをだ」と部下に言ったそうであるが、その「最高の」アイデアというのも1020100といった多くのアイデアのなかのひとつであるから「最高」なのである。高次元のアイデアは多くの低次元のアイデアのなかから生まれる

共感と洞察はスローダウンから

一方で友人や恋人との日常的な会話はゆっくり行ったほうがいい。なぜなら、ここでは生産性や最高のアイデアなどは求められていないから。日常的な会話は舞台の台本ではない。そこに筋書きは存在しない。つまり、結論がないのだ。結論がないから、そこにアイデアは求められていない。求められているのは、日常の共有と共感である。

これは特に異性の恋人同士の会話において顕著にあらわれるだろう。ここには男性と女性の考え方の違いがあるそうである。つまり会話において、一般的に男は生産的なアイデアを出そうとするが、女性はそこに共感を求めている。女性の愚痴は「ただ聞いてほしい」だけなのに、それを聞いた男性は「こうしたほうがいい」と解決策を出してくる。この両者の会話に対するスタンスの違いが男女の亀裂の種となることがしばしばあるから恐ろしい。

男女の会話の難しさは哲学者のニーチェも指摘している。これは人間に対する「愛」についてである。

彼らはわたしから受ける。だがわたしは彼らの魂に触れることができるだろうか。与えることと受けること、その間には1つの亀裂がある。そしていちばん小さな亀裂こそ、いちばん橋を架けることが難しいのだ。(「夜の歌」)

ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄 訳 中央公論新社(1973)

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では、このような亀裂を埋めるにはどうすればよいのだろうか。私の場合、男女で会話のスピードを変えるようにしている。それは会話の目的の違いによるものである。男性との会話では往々にして具体策や結論が求められることが多い。したがって、会話のペースは速くなるように心がけている。言い換えれば思考のスピードを速めている。

対して女性との会話では会話のペースを落とすようにしている。これは相手の話を聴くということに重点を置いているからである。男として正直に申し上げると、女性と会話していると結論を急ぎたくなる気持ちが出てくることがしばしばある。「つまり、こういうことでしょ」とか、「こうすればいいんじゃない」とか。とにかく話を総括してしまいそうになる。

しかしながら、女性にとって結論を急ぐことは会話として面白くないだろう。試しに私も女性と話す際に会話(思考)のスピードを落としてみた。するとおもしろい。相手の話を通して相手の気持ちが心に落ちてくる感覚があるのである。一見、とりとめのないような話でも相手がどういう気持ちでこの話をしているのかを察しようとする姿勢。これこそが女性の求める”共感”というものなのかもしれない。

また、場面によって会話の内容を変えることもいい。もし将来の目標や計画について誰かと話し合う場合、当然歩きながらでもいいが、その時はゆったりとしたペースで。また、足を止めてベンチに腰掛けて話すのも効果的だと考える。じっくり腰を据えて深めたい会話なら余計な動作はかえってない方がいい。ここではスローダウンしたスピードで深い洞察力が求められているから。

プロフェッショナルとは技術的に高いだけでは不十分であると考える。高次元から低次元まで自由自在に自らがギアチェンジできる柔軟さ。これこそが真のプロではないだろうか。

古代ギリシアの哲学者ソクラテスは「大工には大工の言葉を使え」と言ったという。それは政治家が政治家の言葉で大工と話すなら、その言葉は伝わらないということだ。なぜなら、そこに大工の視点がないからである。スピードを、ペースを考えるということは相手を思いやることでもある。ギアチェンジが自然とできるように、すべての人に寄り添えるように、”速い”も”遅い”も大切なのである。

今日も皆さんが幸せ出りますように

本が好き!