それでも「死」を選ぶ
本作のメインストーリともいえる下巻。
私が一番好きな章が「半神と自動手記人形」。
この章は、神の化身とされ宗教団体に監禁された少女と自動手記人形ヴァイオレットの偶然の出遭いと関わりを描いた章。
ここで掲げられた「生と死」というテーマはもとより章の最後の展開が激しくて大好きです。
ヴァイオレットにはもともと心がありません。
それは幼少時から孤児として「戦うこと」だけを学んできたから。
それ故か彼女は人から命令されることに安心を覚え、自分から意見を言うことは少ない。 そんな彼女がときとして思い切った行動に出る。
その言動が人々の行動に影響を与える。そこがこの自動手記人形ヴァイオレットの魅力。 この章でも彼女は思い切った行動に出ます! 私たちは何のために生きるのでしょうか。 普段の人生にある程度満足している人にとってはこの問いは脳裏に浮かばないかもしれません。
それでもこの問いを日々自問している人もいます。
『生きること』とはなんでしょうか。自らが満足することでしょうか。それとも誰かを幸せにすることでしょうか。
死が確実に予見されていることを改めて意識してみると、私たちの人生は限られており、したがって、とても窮屈で、自らは「死」という強大な存在の前に無力にさえ感じます。
一方で限られた人生を力強く生きている人がいる。その姿を見せつけられると「憧れ」とともに自らを卑下してしまう。「私にはそんな生き方無理だ」と。
「死」を意識したとき、生きるのが辛くなります。
プールで泳ぐとき、溺れることを意識すると呼吸ができなくなり、息苦しくなるのに似ています。
そのようにして現実に絶望して、生きるのが辛くて「死」を自ら選ぶのではないでしょうか。
本章では「半神」とあがめられつつも、現実世界という苦行から解放する、という名目のため、殺されることが決まっている少女の本音が綴られています。
私は土壇場で死を選びました。____怖い。生きる方が、怖い。 馬鹿です。馬鹿な選択です。でも、生きていくのは私にとって非常に困難なのです。____もうずっと、死の傍で浅く息をしてきた。 死ぬことを常に考えさせられる環境で、それに慣れきって。いつしかその日が来るのを待ち遠しくさえ思っていた。
暁佳奈 著『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(下)』p.159
「人生においては皆が死刑囚」という表現をしている人がいました。
私たちの人生は見かけ上は平等に与えられています。
そのなかで幸せを感じる人、死にたい人が混在している世界。
少しでもこの大海に放たれた純粋無垢な私たちが息のしやすい環境、泳ぎ方を身に着けたいものですね。
兄と「生きること」について
「生きる」ということにフォーカスしても様々な「生き方」が存在していることが分かります。
前向きに人生を「楽しむ」生き方もあれば「死ぬまで生きる」という比較的消極的な考え方をしている人もいる。
私は心が揺れ動く人間なので前者と後者の考え方を行き来しながら生きています。
端的にいうと「『今日』を生きる」ということになるでしょう。そんな生き方でもいい、と個人的には思っています。
この『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン(下)』を紐解いてみると、そんな生き方の人間がいます。
「(前略)俺は生きる。死んだらそれまでだ。俺にだって悲しいことや辛いことはある。こりゃあ死んじまったほうがいいと思って、現にそうしようかと思う時もある。自分だけが辛いような顔しやがって、皆辛いんだよ。お前に殺されたあいつらも俺が関わらなきゃ死んでなかった。それは俺のせいかもしれん。俺のせいかもしれん。俺は指揮官だったんだ。あいつらを守って導けなかった。だが、な。化物。お前、少しでもそれを後悔しているなら、どんな理由があっても、死ねないなら。誰かに殺されるまで、それかお前が寿命でくたばるまで生きろ。死ぬより、なあ」
暁佳奈『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(下)p.244』
これはヴァイオレットのかつての主であり、ギルベルト・ブーゲンビリアの兄、ディートフリート・ブーゲンビリアのセリフ。発言の相手はヴァイオレット。
ディートフリートにとってヴァイオレットはかつての下僕であり忌まわしい怪物。ディートフリートはヴァイオレットを恐れている。
「俺が死ねと言っても死なないんだろう」と言いながら彼は「生きろ」と彼女に言う。これは奇しくも弟のギルベルトと同じセリフである。根底にある想いはまったく違うが。
愛しているからこそ
本書の最重要なテーマとして「『愛』とはなにか」が挙げられます。
誰かに尽くすことが愛なのか 傍にいるだけで愛なのか
いや、離れていても気持ちが通じていれば愛なのか
はたまた、姿を消すことが愛なのか……
こうして書いてみるとつくづく思うのですが、愛には様々な形がある。
そしてどんな形でも『愛』だと思うんです。
周りの人はいろいろ言うだろうけど、本人がそれを一番『愛』だと思うのなら、決断したのならそれがBestな『愛』なんじゃないでしょうか。
ギルベルト少佐は後悔しています。自らが彼女を不幸にしてしまったと。もっと別な人生を歩むこともできたと。
それもそのはずです。目の前のかわいらしい少女は言葉を覚えても自分から気持ちを話すことはない。主である自分の命令を遂行することにのみ喜びを感じ、常に命令を待っている。その命令は常に「殺せ」である。
自分のせいで彼女は間接的にも殺しに喜びを感じる人間になってしまった、と。
これは多少は仕方のないことだ、と私は思う。あの状況でギルベルト少佐に残された選択肢は少なかった。ヴァイオレットを邪な考えをもつ人間に渡さないために、彼女を悪く利用させないために彼が選んだ最善の方法。
そう。『最善』だったのである。これはGreatでなければGoodでもない。Worstに近いなかでもBetter。それがギルベルトが下した決断だったと思う。
それは彼自身も心の奥では解っているはずだ。
君をそばに置いてから、私は、私の人生は、随分と壊れてしまったけれど。 三角形の頂点を目指す以外の生きる意味が出来た。 ヴァイオレット。 君は、私のすべてになった。すべてだ。ブーゲンビリアの家は関係ない。 ただの、ギルベルトという男のすべて。 私は最初、君を恐れた。だが同時に守りたいと思った。 無知のままに罪を重ねる君を、それでも生きて欲しいと願った。 私は君を使うと決めてから咎女となった。君の咎は私の咎だ。
暁佳奈『ヴァイオレット・エヴァーガーデン(下)pp.36,37
このセリフ。はじめの部分はいいけど、後にいくにつれてトーンダウンしていく。
「君の咎は私の咎だ」に込められたギルベルトの悲痛の叫び。これが大陸戦争後のギルベルトの「ある決断」に影を落としている、といえる。
私は個人的にその「ある決断」は支持しない。
でも結果としてヴァイオレットは人として成長できたし、より人間らしくなった。結果論ではこれは成功といえる。
もちろん、そこには彼女の人並みではない努力があるのだが。そこから得られる結論として
- ギルベルト少佐の決断は正しかった
- 人生なんとかなるものである
などというものが考えられる。いずれにせよこの物語は進行する。ヴァイオレットは成長する。
それでも私はひとりの女性を愛する男としてのあの決断は支持できない。彼女を深く悲しませたから。
長く続く恋愛には紆余曲折がつきもの。
陰陽があるなかで私たちはどうしても「陽」にばかり気を取れれてしまう。
でも『陰』に絶望したときこそ二人の絆が試されていると思う。
『愛』とはなにか
それでも私たちはしっかりと決断したいですね。かけがえのない人のために。
今日も皆さんが幸せでありますように
参考
1:(2021年1月10日 閲覧)
2:(2021年1月10日 閲覧)
(追記 7/28/2021)このリンクに関しては対象のページが存在しないことが確認されたため、削除しました。
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