うらみわびの【きょう考えたこと】第31回
ここ最近、ある事件がきっかけで「生きる権利」と「死ぬ権利」が話題に上がっている。人生の根幹に関する議論が行われることに関しては素直に歓迎したい。
しかしながら、「生きる権利」が「死ぬ権利」を覆い隠す論法には違和感を感じる。
私は誰もが「幸せになる」社会、生き方、考え方について模索をしているが、それは決して「幸せな人生の方がいい」という短絡的な考えからではなく、「自分は生きる価値があるのか」、「自分は他者にとって価値のある人間なのか」、「自分は何のために生まれ、何のために生きるのか」という自問と葛藤を繰り返しながら行き着いた、今のところのの答えだ。
「『死ぬ権利』よりも『生きる権利』を社会は考えるべきだ」。至極当然だ。人間には心がある。福祉社会に生きる以上、生物学的な適者生存の考えではなく、皆が「生きる」希望をもつ社会をつくっていくべきだ。
個人のレベルでもそうだ。他者の為に生きろ、とは決して思わない。それでも、自分が枯れるまで生を渇望して、もがいて、苦しんで、希望を、幸せを手に入れようとするべきだ。それは「生きること」へのほとばしる欲求だ。
私のように、生きる意味を見いだせずにいて、もがきながら「生きる権利」を考える人がいる。一方で、「生きる権利」を突き詰めた末に絶望し、「死ぬ権利」を唱える人もいよう。「生きる権利」と「死ぬ権利」はコインの表と裏。姉妹の関係だ。
だからこそ、「生きる権利」の議論には「死ぬ権利」が内在されていなければならない。「死ぬ権利」に触れることなく「生きる権利」を唱えることはあまりにも空空漠々としている。「生きる権利」論者にはもっと「死にたい」と苦しんでいる人たちの声を聴いて欲しい。
強烈な太陽の日差しは眩しすぎて目を覆いたくなる。必要なのは暖かい光と人生という土地を潤す恵の雨、そして下から押し上げてくれる他者のサポートなのだ。
今日も皆さんが幸せでありますように