うらみわびの【きょう考えたこと】第28回
(本記事は2020年7月に作成されたものです)
新型コロナウイルスにより、外出自粛が叫ばれている今日この頃。東京では数日連続で200人を超える感染者がでるなど、身震いをするようなニュースが飛び込んでくる。なかでも、話題に上がるのが「自粛」でだろう。
感染拡大を食い止める為に政府が打ち出したのが不要不急の外出の自粛だ。これは世界から見たら生ぬるい施策だと言われているが、これでも第一波の波を食い止めているのは、ひとえに日本人の自主的な気質によるものだろう。
しかし、緊急事態宣言が解除され、経済の立て直しの名目のもとに、人の往来が戻りつつある中、感染者が再び増加し、改めて「自粛」が叫ばれている。
視点によって異なる”自粛”感
果たして、自粛は必要なのか、といったことも議論となっているようだ。これを反自粛派と呼ぶならば、それが支持するのが、経済の維持だろう。
ここには様々な視点の声があることに注意が必要だ。つまり、一言に「経済」といっても、私たちは様々な形で経済に参加しているのだ。単に消費者という形だけでなく、労働者や事業主、投資家という形もある。どの視点から見るかによってコロナ禍における「経済」への道筋が変わってくるのではないか。事業主に雇用される労働者のなかでもとりわけ仕事が安定している人なら自粛を求めるだろうし、自粛の影響で事業が立ち行かなくなっている事業主およびその労働者は反自粛派になるかもしれない。現在の自粛をめぐる議論はこのような様々な視点からみた考えの錯綜と捉えられる。
ここで一ついえることは、誰もがこのコロナ禍のなかで、リスクを冒してまで働かなくていいなら働きたくない、という思いを持っていることだ。一概に反自粛派だからといって、それだけを攻撃材料にするのは根拠に乏しい。社会の実態を冷静な目でみることが肝要だ。
問題は、政府がどこまで補償できるかだ。仮に100%に近い形で補償したとして、後々、財政が悪化して増税などにつながったら、それもそれで国民にとってつらいことになる。世界恐慌以来や第二次世界大戦以来、リーマンショック以来、といった文言が指すように、数十年に一度の災害とみると、「今」を耐え忍ぶための政策が求められるが、アフターコロナの社会像を見据えての施策が求められており、我々国民も長い目で見たほうがよいだろう。
二項対立の罠
しかし、「今」の苦しさが耐えられない人もいる。一方で外に出たい人もいれば、他方で自粛を叫ぶ人がいる。私は両者を否定はしない。どちらも本人にとって自然な反応だからだ。しかしながら、ここのところの報道等をみると、「自粛」or「反自粛」という二項対立の論調が目立つ。私はこの論調に違和感を覚える。コロナ禍における人の反応には人間の心理が関わっており、その心理は複雑で決して二項に収まるものではないからだ。
ここで、一旦コロナから離れる。私たちは常に同じ状態ではない。状態の良い時もあれば、悪い時もある。仮にBさんから「Aさんは変わらないですね」という言葉を投げかけられたときにイライラするときもあれば、それを気にしないときもある。うれしいときもあれば、憂鬱なときもある。そして同じ「Aさんは変わらないですね」という言葉をBさんではなく、Cさんから言われたときはBさんの時とは異なった反応を示すこともあるのだ。人間はこれくらい複雑である。「腹の虫の居所がわるい」という言葉がこれを如実に表している。
この例からいえることは、私たちは時と状況によって同じ出来事(例では「Aさんは変わらないですね」)から異なる反応を示す、ということである。私たちは往々にして「こうあるべき」という一つの像にはまってしまっているように私は感じる。このようなステレオタイプで人間を見てしまうと、そこから外れた他者の行動が目に付く。そして非難したくなる。
しかし、人間は複雑な生き物である。その時その時によって、同じ状況でも異なった行動をとり得る。したがって、コロナ禍において、「7月1日に外出した」からといって、その人が「自粛を守らない人」とは一概に言えないのだ。その人が自粛をこれまで続けてきた中でのストレスの反動で外出をしてしまったこともあり得る。もしかしたらその人はこれまで人一倍、自粛に励んできたかもしれないのだ。
人はその日その日によって精神状態が異なる。人間の精神には様々なステージが存在している。私はこれを精神階層とよんでいる。人間はその日その日によって、この精神階層を行ったり来たりしているのだ。コロナの外出の例でいえば、外出してしまったのは、単にその日の精神階層が低い位置にいた(精神の状態があまり良くなかった)ともいえるのだ。
私がいいたいのは、人間を一元的に判断してはいけない、ということである。究極的にいえば、完璧な人間などいない。私たちは皆、高みを目指しているようでいて、悪に走らないように、自らをなんとかつなぎとめているのだ。
人間だれしも悪を働くことがある。悪なくして正義は存在しない。であるからには、本当は悪を責めるのではなく、数少ない正を褒めるべきなのではないだろうか。「私たちは頑張ってなんとかコロナを食い止めている。これからも頑張ろう。」そんな声が社会を席巻することを望んで止まない。
外出は悪ではない
一言注意していただきたいのは、私はコロナ禍での外出に関しては一概に反対していない、という点である。この記事においては、あえて、自粛派の論拠に沿って、つまり「コロナ禍においては社会の為になんとしてでも不要不急の外出は避けるべきだ」ということを前提として論じた。
ここからだと、外出は悪だ、ということになるが、それは仕方がないことだと思っている。前述したように人間は完璧ではない。コマンドを入力したら必ず同じ答えが返ってくる機械ではない。人間は規則を守らないのではなく、守れないときがある、のだ。したがって、私自身はコロナ禍における外出が必ずしも悪だとは考えていない。
一方で何が何でも我を通して外出する人もいる。私はこれには反対だ。今はあくまでも耐えるときだ。しかし、我を通す人が一定数いることも人間の性質として受け止めるべきだろう。これからは、成功と失敗を繰り返しながらも私たちの多くがコロナ打破、という同じ方向を向いている、そのこと自体が大切である、と切に感じている。
今日も皆さんが幸せでありますように