きょう考えたこと

渡辺麻友さんに想う

うらみわびの【きょう考えたこと】第15回

執筆日より1日前であったか。元AKBで女優の渡辺麻友さんが芸能界を引退した、という報道がなされた。突然の報道であった。それだけなら、特筆に値しないのであるが、この引退には引っ掛かる点がある。

 渡辺さんは数年前から「体調がすぐれない」と事務所のスタッフや関係者に漏らしていたそうである。AKB在籍中にはセンターを長年にわたり務められ、神セブンとも呼ばれた逸材に何があったのか。

 渡辺さんの突然の引退に私は自分の過去を重ね合わせた。

 私はかつて教育の道を志し、教育の第一線に立っていた。当時の私は自らの仕事が天職であると信じて疑わなかった。であるから、後に下した決断を受け入れることができなかった。私はある日突然、仕事への意欲が失せた。というよりは「あらゆること」への意欲が失せた。そして激しい胃腸の痛みと吐き気に襲われた。私はこのままでは自分が壊れてしまう、と確信に至りきらない、自らの内側からの声を頼りに職場を退職することを決断した。職場関係者と、なにより生徒たちには突然のことで申し訳なく思っている。しかしあのまま数日仕事を続けていたら、自分は本当に壊れていたかもしれない。

 自律神経失調症という症状がある。自律神経が乱れて、体に様々な障害を起こす嫌な奴である。具体的な症状は胃腸の不調である。主な原因は過度なストレスだ。私は気づかないうちにストレスをため過ぎていたのかもしれない。

 渡辺さんは今後については、静かな生活を送りたい、という趣旨のことを言っていたという。彼女が知らず知らずのうちに心を痛めていたのではないかと危惧している。

 アイドルとは時代の最先端、人々の真正面に立つ職業である。そこには世間というもの、グループのメンバーとのつながりがあってこの成り立つものがある。SNSが普及した現在では、アイドルは私生活も無数の人に覗かれる。AKBというグループはメンバー決定に「選挙」という競争原理を導入している。彼女らに真の意味で心の平穏が訪れることはない。彼女らは常に闘争モードなのだ。生き残るためには狡猾にもならなければならない。

 渡辺さんはピュアなイメージで売れたアイドルだと認識している。スキャンダルは一切なかった。彼女のまじめで精緻な性格がうかがえる。

 しかし世界は残酷である。かつて高校の吹奏楽部に所属していた女子の1人が教えてくれたのだが、吹奏楽部というのは文字通り「地獄」だそうだ。レギュラーを勝ち取るために相手を蹴落とすこともしばしばであるという。いじめもあったという。アイドルの笑顔の裏には闇もあるのだと知った。

 渡辺さんがアイドルの世知辛い世界に苦しんでいたことは想像に難くない。

 「なぜ引退という選択なのか。そこまで大胆な選択でなくてもよいのではないか」と言う人もいる。確かに単なる体調不良なら芸能活動の無期限休止でよいだろう。しかし精神的な痛みはそんな簡単には癒えない。個人差も大きい。名倉潤さんのように2,3か月で復帰する人もいれば、数十年経っても心の痛みと闘っていいる人もいる最も良くない処置は「時期を定めて休む」ことである。残念ながら心の病は右肩上がりには治らない。良くなったと思ったら突然、谷底に突き落とされることもある。「こんなに時間があったのに一向に治らない」、「もう復帰しなきゃ」と思うことが自分をさらに追い詰めるのだ。無期限の休止といっても、いつまでも休んでいるわけにはいかない。周りの人に迷惑が及ぶためだ。まじめな渡辺さんのことである。それらを考慮して「引退」という決断をしたのではないか。

 芸能界を引退したからといって、もう戻ってこない、と考えないでほしい。今は渡辺さんにとって人生を見つめる大切な時期になると思う。しばらく経てば、また芸能界に戻りたい、と思うかもしれない。彼女が帰る場所はいつでも用意されるべきだ。人生は長い。誰にだって人生の岐路に立つことはある。渡辺さんの決断は決して特別なことではない。それ以上にあの若さでアイドル界を極めた、その偉業に敬意を表したい。身体は正直である。彼女の決断を誰も否定することはできない。

 長いタイトルの小説がある。『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』(鴨志田一 著)。

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物語は、子供の頃から天才子役と目され将来を渇望されたアイドル、桜島麻衣がある日突然、芸能界から姿を消すところから始まる。この小説の主人公、梓川咲太の言葉を借りれば、我々はこの社会であらゆる不条理に慣れたようでいても、何かが「すり減ってしまう」のだろう。咲太との関りをきっかけに麻衣はアイドルに復帰する。渡辺さん自身が望むステージで今後さらに活躍されることを願ってやまない。