うらみわびの【きょう考えたこと】第41回
「後悔」には様様な種類があると思う。できなかった後悔、しなかった後悔、存在にすら気づかなかった後悔、、、。
だから一様には言えないが、今回は一つ「できなかった後悔」について述べたい。
まず基本として私たちは「善く生きたい」という想い=向上心を持っている、と私は信じている。だから私たちは友人には優しくしたいし、親身になって接したいと思っている。
今、身近に苦しんでいる友人がいたとする。原因はなんだっていい。仕事や学校での失敗かもしれない。人間関係かもしれない。はたまた失恋かもしれない。
そんな時、友人として隣人として私たちになにができるだろうか?
アドバイス?そもそもそんなものは必要かもしれない。でも、大袈裟なことじゃなくてもいい。ただ、相手の話に耳を傾けるだけでもいいんじゃないかな。相手の話を聴いて相槌を打つ。ただそれだけ。
これは決して生産性があるとはいえないかもしれない。合理的だとはいえないかもしれない。
でもちょっと待って。生産性があればいいの?合理的であればいいの?私たちの人生って?
私は時々思う。私たちの人生って、究極的には「意味がなくてもいい」んじゃないかって。自らの人生に意味付けをしようとして悩み傷つくくらいなら、いっそ意味なんて求めずに生きたほうが幸せなんじゃないかって。
そうやって生きて誰かが傷つくだろうか?誰かに不利益があるだろうか?ある人は言う。「お前なんか生きている価値がない。とっとと消え失せろ」と。
そんな奴に耳を貸す必要はない。だって、私たちはそんな無理解の人達のために生きているわけじゃないんだから。心のなかで思えばいい。「おめぇこそ私の前から失せやがれ」って。
「ゲシュタルトの祈り」というちょっと長い詩がある。
私は私のために生きる。
あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に応えるためにこの世にいるわけじゃないでしょう。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然私たちが分かり合えるなら、それは素敵なこと。
たとえ分かり合えなくても、それもまた同じように素晴らしいこと。
そう。私たちは誰かのために生きてるんじゃない。心の片隅にでもそう思えれば少しは楽に生きられるんじゃないかな。
話を戻そう。私たちは友人が困ったときには力になりたい、そう思うもの。
一方で、100%力になれるなんてあり得ない。だって私たちは他者であることに変わりはないのだから。
そのうえで「少しでも」私たちの存在が私たちの友人の支えになれたら、それは幸せなことだろう。
最悪なのは「何も力になれなかった」と自らを責めること。こんな後悔ほど無駄なものはない。
私たちにできるのは「与える」こと。ただそれだけなのだ。自らが良いと思ったものをただ与えるだけなのだ。
それが結果として良いか悪いか。それは受け取った相手が決めること。
思えば、これは相手へのプレゼントともいえる。プレゼントの類語である英語 ‘gift’ には「才能」という意味がある。たとえ相手が喜ぼうが喜ばまいが、それは「あなたにしかできない」贈り物であることを忘れないで欲しい。
今日も皆さんが幸せでありますように!